日本で伝統的に善いとされる考え方の一つに「人様に迷惑をかけるな」があるかと思います。
昨今ではこれに対して否定的な見解も多く見られますが、個人的にはそこそこに妥当な考え方ではないかと考えています。
健康で余力のある人間の戯言ではありますが、考える所をまとめていきます。
「人様に迷惑をかけるな」と自己責任論の境界線
「人様に迷惑をかけるな」は一見すると他力を請うことを否定して自力での自己救済を最上とする自己責任論に見えるかもしれません。
ただ、そもそも人助けは迷惑なのかと言えばそうとは限らないはずです。
確かに世の中には他人を助けることを絶対的に嫌う人がいますし、人に助けられることをとにかく嫌がる人もいます。ただ、それが絶対的多数派ではありません。人から助けられたらありがたいと感じる人もいれば、人を助けることを嬉しいと感じる人もいます。そういった人々からすれば、人助けは決して迷惑を被る類の事象ではありません。
さらに言えば、私のような功利主義者からすれば人助けは苦や迷惑どころか助けられた側も助けた側も幸福を得られるものであり、世の幸福の総量を増やす快の行為だと考えます。
功利主義とは行為の善悪は目的の有無ではなく幸福の有無で判断するという考え方です。
功利主義的視点で言えば、相手に貸しを作るとか、自己満足を得るとか、そういったものを求めることは何ら恥じることではありません。むしろ人は与えた分だけ何かを得るべきであり、積極的にそういった利得を追及していくべきです。如何なる動機で行動しようとも相手が助かるのであれば、それは偽善ではなく善なのですから。
人の頼み事を断れ、なんてことは言いません。私も人の頼み事はまず断りません。ただ、人の手助けをするならば自分も貸しや満足といった利得を得る、人助けはそういった持続可能な状態が望ましいです。一方がひたすら損をして摩耗していくような自己犠牲の関係性は、たとえ純粋なカント的善がそこにあるのだとしても、それは残念ながら幸福には繋がりません。
つまり、「人様に迷惑をかけるな」と自己責任論は必ずしも同一視できるものではなく、人助けを好む人からすれば別物です。
「お互い様」がセット
もう一点、日本の伝統的な価値観に「お互い様」の考え方があることは留意すべきだと思っています。
たとえ「人様に迷惑をかけるな」が自己責任論だとしても、しかし完全に自己完結が出来る人間は数少ないものであり、互いに迷惑を掛け合うことは必然的に起こります。そしてそれはお互い様なのだから、わざわざ気にするようなことではありません。
つまるところ、「人様に迷惑をかけるな」と「お互い様」はセットで運用すべき価値基準です。互いに迷惑を掛けないよう配慮はするものの、しかし困ったときにはお互い様の精神で支え合う。このような規範を持つ社会は決して共助を否定しているわけではなく、むしろ必要に応じたセーフティネットの構築が配慮されている共助の精神に満ちた社会だと考えます。
結言
「人様に迷惑をかけるな」を是とした倫理規範を持つ社会は人助けを否定していません。人助けは迷惑だとは限りませんし、個人の余剰リソースを他者に供与することを否定しているわけでもないのですから。
「人様に迷惑をかけるな」が本当に完全な自己責任論であれば、互いに迷惑を掛け合うことを前提とした「お互い様」の規範は共存し得ないものです。そうではない以上、「人様に迷惑をかけるな」を共助の精神に欠けた自己責任論だとして批判するのは論理が通らないのではないかと私は考えます。
余談
「人様に迷惑をかけるな」を問題と考えて、その別解とすべき倫理規範として「人助けをしなさい」が適切だとする言説があります。
ただ、私は人助けを積極的にやりたい人間ではありますが、「人助けをしなさい」を社会全体の善の規範とすることには否定的です。それをしてしまうと「人助けをしなければならない」とした強制性が生じて、それが長じれば「人助けをしない人は悪」とまでなりかねないと考えます。
そのような規範は人助けをする余力の無い社会的弱者にとって悪い方向に働きかねません。人助けをするリソースをたくさん持っている人、直截的に言えば「金持ちが善」とした拝金主義的発想に至りかねませんし、社会的弱者であることそれ自体が利権と化して欧米やアフリカのような格差の固定化にも繋がりかねません。
それよりもまずは自立を善とし、しかしお互い様の精神で共助も行われる、そのような社会のほうがバランスが取れて弱者にも優しいのではないかと愚考するばかりです。
率直に言えば、迷惑の有無や人助けの是非を倫理規範とするよりも、「お互い様」こそが重要な考え方だと思っています。