忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

恩を売るならば値打ちを考える必要がある

 得意先や常連であれば売価に色を付けるように、街のコンビニと山の自販機では飲料水の値段が違うように、観光地の宿泊費が繁忙期と閑散期で異なるように、商売では相手や状況によって売価が変わります。

 これは不当な差別ではなく市場原理の一環であり、そして必要な利益をトータルで確保するための施策であり、平等ではありませんが公正です

 

 今回は心の優しい人には少し厳しい話となりますが、商売と同様、人に恩を売る時は相手や状況によって売価を変えるべきだと私は考えます。

 

公正であるための思慮

 ギブ&テイクの関係性において、ギブが多い人はギバー、テイクが多い人はテイカーと呼称されます。今回はこれらの用語を援用していきます。

 

 他者に恩を売るならば、ギバーにはタダ同然の値打ちでもよく、逆にテイカーには高く売りつけることが必要だと考えています。

 相手によって値打ちを変えることは不誠実だと思う方がいらっしゃるかもしれません。万人に平等に接することこそが善であると。

 そう善を定義するならばその通りです。

 ただ、現実には相手によって価格を変えないほうが善から離れた無自覚的な悪行となりかねません。社会的な善は個人の主観ではなく客観で決まるものです。困っている人を助ける主観が単純に善ではなく、客観的に理不尽や不公正によって損を被っている人へ補填する行為こそが善となります。

 物凄く極端な例で申し訳ないですが、人手が足りなくて困っている人を助けることは間違いなく主観的善の指向を持つものの、では人手不足で困っているだろうからとヤクザの闇バイトを引き受けることは善行かと言えば、それは当然ながら客観的で社会的な善ではないわけです。

 

 同様に、ギバーに恩を廉売してテイカーには恩の値打ちを吊り上げることは一見不誠実なように見えますが、恩の値打ちはそもそも個人の主観的な定価ではなく受け取り手との相対的な変動価格によって定まる以上、極めて公正な行いです。

 厳しい表現ですが、テイカーに恩を安価で売ることは価値が分からない人に高価値なものを渡して無駄にする、恩そのものの価値を低下させる行為であり、不当廉売であり、社会的な善からは離れた行いとなります。

 「社会的な善は知ったことではなくたとえ社会悪となろうとも個人の自己満足として主観的な善のみを追求する」とするのは個人の自由ではありますが、人助けは極めて尊い行為であり、しかしだからこそ、その価値を貶めるようなことは望ましくないと私は考えます。

 

結言

 ひたすら辛辣で申し訳ないですが、つまるところ、相手や状況に応じて恩の値打ちを変えないことは一見誠実なように見えて、それは客観的な思考を放棄していることに近似します。思考放棄は前述した悪人を手助けする例のように、時に無自覚的な悪行への協力へとなりかねません。

 どのようなギブをどうやってどの程度の値打ちで与えるか、そういった思慮の手間暇を掛けることこそが真に他者に対して真摯で誠実な姿勢ではないかと個人的には考えます。

 

 

余談

 少し穿った視点ですが、テイカーは時に無自覚な場合があります。人に何かをしてもらって当然、やってもらって当然、与えられて当然と思っており、恩の価値を低く見積もっているどころか見積りさえしていない人も、世の中には存在します。

 そういった人には、”少年漫画でありがちな修行用の重いマント”を羽織らせるが如く、恩をあえて着せてあげることで、その重みによって恩の価値を教えてあげることもある種の優しさではないか、そう愚考しています。