そもそもSocial Justiceを「社会正義」と訳すのは宜しくないと思う派。
「社会的公正」が妥当ではなかろうか。
進歩主義と保守主義
アメリカの社会分断を筆頭に、Progressives(進歩主義者)とConservatives(保守主義者)の間では意見が割れることが多々あります。
そのような場合、同じトピックを同じ言葉で話していても、そもそも言葉の認知自体が異なることすらあり、Social Justice(社会正義・社会的公正)もそのうちの一つです。
もちろんベースの価値観として、公正であること自体は善と認識されます。誰もが人権や政治的権利を行使する自由を持ち、幸福を追求できる公正さを社会が持つことは政治的思想の違いに関わらず合意される傾向を持つでしょう。
しかし”資源へのアクセス”に対しての社会正義は異なる認識を引き起こします。
進歩主義者とは歴史的な出来事や社会的圧力によって個人が抑圧されていると考える人を指し、そのような人は社会的背景を批難する傾向を持ちます。
保守主義者とは歴史的背景や社会構造による障害に関わらず自力で状況を改善できると考える人を指し、そのような人は個人の責任を指摘する傾向を持ちます。
よって一部の進歩主義者は衣食住や医療などの基本的ニーズを政府が満たすべきだと考えます。対して一部の保守主義者は援助が過ぎると個人が自活手段を学ぶ意欲が減ると考えます。
進歩主義者は政府のプログラムを拡大して援助の幅を広げることを是とし、幅広く中央政府が資源を結集して全体を救済することを求めます。保守主義者はプログラムが肥大化して官僚的・非効率的になることを懸念し、中央ではなく地方社会に資源分配を任せることを求めます。前者は「大きな政府」で、後者は「小さな政府」です。
俗に言う「令和の米騒動」は一つの指標となりました。
米価をコントロールできなかった政府を批判する人は進歩主義的発想であり、自由市場の失敗を批判する人は保守主義的発想だと言えます。前者にとっては国民の基本的ニーズを満たせなかった国家に責任があると考え、後者にとっては市場を乱した誰かしらに責任があると考えます。
どちらが正しいどちらが間違えているといった話ではなく、同じ事象一つ取っても根底のイデオロギーの違いによって認知に大きな差が出る、そういった話です。
結言
狩りをして餌を与えるべきだと考えるのが進歩主義者、狩りのやり方を教えるべきだと考えるのが保守主義者と言い換えても、多少怪しいところはあるもののニュアンスは通じるでしょう。
どちらが正しいわけでもなくこれらは状況次第です。生まれたばかりの子どもに餌を与えない動物は問題ですし、育った子どもに狩りのやり方を教えないことも問題です。状況に応じてどちらが適切かは変わるものであり、進歩主義者と保守主義者の双方が揃っていて状況に応じてやり方を切り替えていくことが健全さを保つ最適な方法となります。認知や主義の異なる相手は「排除すべき敵」ではなく「協業すべき人々」です。
その点で、冒頭で述べたように「社会正義」という訳は宜しくないと考えます。どのようにすれば”より公正か”は状況によって変わるものであり、正義を名乗る側の反対側が必ず悪になるわけではありません。進歩主義と保守主義は正義と悪の単純な対立構造ではない以上「社会正義」の訳では誤った認識を加速させかねないため、「社会的公正」と訳すことが妥当ではないでしょうか。