忘れん坊の外部記憶域

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政治と党派性:一つの見解としての愚考

 主義・主張などが特定の党派に偏っていることを党派性と言います。

 "党"の字が入っているためなんとなく政治用語に思える言葉であり実際に政治に関する議論の場で多く用いられていますが、これは政治のみに限定される言葉ではありません。党派とは「考え方・主義や利害関係などを同じくする人々の集まり」であり、例えば血縁や企業、自治体や宗教などによる集団も党派の一種です。

 

党派性の功罪

 党派性自体は集団を構築するために不可欠です。主義や利害、血縁や嗜好など何らかの共通点があるからこその集団であり、そういった共通点がまったく無い人々の集まりではそもそも組織化自体が生じません。

 そして自分の家族と隣の家の家族を同じものとして扱うことは通常ありえませんし、それはサークル・企業・地域・国家など集団の規模に関わらず同様です。

 つまり人は社会的動物であり必ず何かしらの集団に所属している以上、程度は人によって濃淡の差はあれど誰もが党派性を帯びています。それ自体は悪いことではなく、自然なことです。

 

 しかしながら党派性の度が過ぎる場合は害をもたらすこともあります。

 たとえば党派性の強い人は、仲間思いで、身内への配慮を欠かさず、集団に利益をもたらすことに熱心で、面倒なことも率先して行って仲間を引っ張っていくリーダーとなります。情に厚く仲間にとって頼もしい存在であり、俗に言えば良い人です。

 しかし、厳しい表現ですがそれは見方を変えれば身内を優遇する排他的な人だとも言えるでしょう。仲間に優しいことは、相対的には仲間以外に厳しいことと同義です。

 

 適度な党派性は連帯を高めて仲間のミスをフォローする関係を構築します。

 過度な党派性は仲間以外を排除して仲間のミスを隠蔽する関係に劣化します。

 世間を見渡せば、同僚の悪事を見て見ぬふりする人や家族や親族に甘く職権を乱用して利益を誘導する人など、党派性が先鋭化して仲間内に甘くなり過ぎている人を様々なところで散見できることでしょう。

 

 つまるところ、党派性とは料理の「つなぎ」です。それが無ければハンバーグや魚のすり身はくっつかずにまとまることができませんが、それが過剰であればボロボロと崩れてしまい味も落ちます。理想の味を作るには適量を見極めることが重要です。

 

政治と党派性

 このような理屈からして、政治の分野で「党派性」という言葉が頻出するのはある種の必然です。

 なにせ民主主義政治とは多数派を構築し合う仕組みであり、仲間を増やすことが政治的な勝利条件です。それは必然的に強固な仲間意識を必要とするものであり、それを生み出す党派性が不可欠な分野だと言えます。

 率直に言ってしまえば、政治とは過剰な党派性を持っている人のほうが強い分野です。

 だからこそ、他所の政党の不祥事は鬼の首を取ったように攻撃するくせに自らの政党の不祥事は何事も無かったかのように見て見ぬふりをする、そんな政治家が日本に限らず民主主義政治に存在しているのは必然的だとすら言えます。困った話ではありますが。

 

 これはバランスを取るのが実に難しい問題です。

 政治は本来からすれば社会正義たる公正が望まれる分野であり、だからこそ過剰な党派性に基づいた不公正な意思決定は世間や他党から批判されます。

 かといってそういった問題が起きないように党派性の弱い人を政治家として祭り上げようとしても、それは原理原則のレベルで大成できません。党派性の弱い人とは、とても嫌味な言い分ですが「背中を撃ってくるタイプ」や「仲間を平気で売るタイプ」であり、そういった人は誰も仲間にしたくないので、党派性が弱い人はそもそも民主主義政治において必須の多数派を構築できずに消えていきます。

 

結言

 党派性が無ければどうにもならないが、公正でない党派性で決められても困る。

 政治と党派性の関係はなんともジレンマ的であり、解消は難しいです。

 

 まあ、党派性を無くすことは現実的ではありませんので、強いて言えば身内の範囲が立場に合っている人を選ぶことが現実解かとは思います。

 企業経営者であれば側近のイエスマンや社員だけでなくユーザーも含めたステークホルダー全員を身内とできる人、市議会議員であれば知人だけでなく市民全員を身内として見れる人、そして国会議員であれば政党や関係者だけでなく国民全員を身内として思える人であれば、たとえ党派性が強くとも公正さを損ねることにはならないでしょう。もちろん、これが完璧かと言えばそうでもありませんが。やはり難しい問題です。