先日、朝食を買った時のやり取り。
店員「お会計、368円です」
私「え、少なくないですか?」
店員「あ、すみません、ひとつ入っていませんでした」
実に大したことのない事例ですが、店を出て職場へ向かう途中に考えてみたところ、黙っていれば出費が減る利得が得られたと後から気付きました。
まあそれに気付かず無意識で会計間違いを指摘したわけですが、こういう時に己の利得よりも正しさが先に思い起こされるのが私の性格なのでしょう。
どうにも私は自身の損得に鈍感です。それは必ずしも問題ではないのでしょうが。
この判断基準に関連して、今回は善悪の話をしましょう。
このブログでは時々取り上げているテーマです。
個人の善悪と社会の善悪
善悪は『個人』と『社会』で異なる視座を持ちます。
個人にとっての善とはそれが『快』である事象であり、個人にとっての悪とはそれが『不快』である事象を意味します。
対して社会にとっての善悪とは『その事象が公正であるか否か』で定まります。
分かりやすい事例として窃盗を考えてみましょう。
窃盗は行為者の利益を増す行為であり、そして利益を得ることは個人にとっての快です。よって窃盗は行為者にとっての善であると言えます。
しかし窃盗行為は同時に被害者の不利益をもたらします。不利益を被ることは個人にとっての不快であり、よって窃盗は被害者にとって悪です。
これらの個人的な善悪から離れて客観的に見た場合、窃盗の行為者と被害者の間には利害のアンバランスが生じており、それは社会にとっては悪です。もっと正確に言えば不正義・不公正に該当します。
以上より、窃盗は行為者と被害者にとってそれぞれ善と悪となりますが、社会的には不公正であり悪と判定されます。
これは東洋的な考え方、「お天道様が見てる」を代表例として善悪の判断基準が自然発生的な社会に属する人からすると少し難しい見方かもしれません。
特に日本社会は分かりやすく東洋的な基準を持っており、個人ではなく社会が善悪を判断するものだと考えている人が多いでしょう。
上述した善悪の概念は西洋的ですので、英語で考えると区分が分かりやすくなります。
個人にとっての善悪とは善(good)と悪(evil)で区分されます。
対して社会的な善悪とは正義・公正(justice)と不正義・不公正(injustice)で区分されます。
たとえ個人にとって善(good)な行為であっても、それが社会的に不正義・不公正(injustice)をもたらすのであれば許容されません。
利己主義者の取り扱い
このように個人の善悪と社会の善悪は異なると考えることができます。
そしてこれらの優先度は社会が勝ります。個人にとって不快(悪)であってもそれが社会の公正(justice)にとって必要であれば我慢することが求められるものです。
数多の犯罪行為が当事者にとって快(善)であっても許容されていないことを考えればこの優先度の差は分かりやすいかと思います。個人の際限なき快(善)の追求は時に周囲へ膨大な不快(悪)を産みだしかねないことから、社会的善である公正が優越するのは必然だと言えるでしょう。
しかし、残念ながら世の中には個人の利得・善の為ならば社会にとって不正義・不公正であっても構わないと考える人はいます。冒頭の事例であれば、自らが小銭の利得を得るために会計ミスを指摘しないことで店舗側の損失を考えないような人です。
このような人、自己同一性を獲得できずに個人と社会の適切な距離を学べていない人を何と言えばいいのか、善悪の分化がされていない、あるいは善悪の社会化が為されていないとでも言えばいいのでしょうか。
このような『子どものように自分の快・不快しか見えない、大人になれなかった人』は昔からいたでしょうが、そういった誤った個人主義者、正しく言えば利己主義者をどう扱っていくかが今後社会が解決すべき一つの課題だと愚考しています。
結言
個人的な見解としては、まず誤った個人主義の認識を改めることが必要だと思っています。どうにも個人主義と利己主義を混同した言説を多々見かけますので。
要するに、それぞれが自ずから律して公私混同を避けることこそが現代の先端的価値観だと私は考えています。
それは利己主義とは異なる意味での個人主義です。
慣用的な意味での個人主義、すなわち全体や集団へ配慮せずに自らのみを重視する姿勢は正しく言えば利己主義であり、個人主義とは異なります。
個人主義とは「公」のために「私」を捨てる全体主義とも、「公」を捨てて「私」のみを求める利己主義とも異なる考え方です。それは「公」における「私」を明確に確立する思想であり、すわなち公私混同を避けて「公」と「私」の領域を明確に区分するところにその意味があります。
「公」においては公益のために働き、「私」においては私益のために動く。
全体主義と利己主義の罪を適切に隔離して功のみを抽出するための考え方が個人主義です。
利己主義が許容される社会は基本的に存在しません。
何故ならば、それは社会の存在意義に関わるためです。
特定の個人だけが利得を得る社会ではそれ以外の人がその社会に属する意味を失い、社会は崩壊します。社会格差は常に社会の存続に関わる重大な問題です。そして利己主義は社会格差を拡大する方向へ働く思想であり、社会が許容することはあり得ません。