単一の判断基準では党派性を避けられないと私は考えます。
道徳的帰結主義
善悪の基準には雑に分類すると二大派閥があります。一つは義務論であり、一つは帰結主義です。もっと具体的に分類していくと広大な話になってしまうので、とりあえず二つだけをピックアップします。
義務論は簡潔にまとめれば行為自体の本質から善悪を判断する考え方であり、「行為の道徳性は行為の結果に基づくのではなく一連の規則と原則の下でその行為自体が正しいか間違っているかに基づくべきである」とする規範的な理論です。
帰結主義とは大雑把に言えば善意ではなく善行に価値を置く考え方であり、より具体的に言えば「ある行為の結果がその行為の正しさや誤りを判断する最終的な根拠であると考える」発想です。
帰結主義にとって『道徳的に正しい行為』とはどのような意志や思考を持とうとも良い結果をもたらす行為を指します。善意であろうとも他者に害をもたらす行為は悪行であり、例外的ですが悪意であろうとも他者に快をもたらす行為は善行と判定します。
これは善意それ自体を絶対的な善とする義務論とは相反する思想ではありますが、必ずしも対立する必要はありません。
例として、善意でもらったプレゼントが好ましいものではなかったとしましょう。
義務論的発想からすると、この行為は善意に基づいた行為であり善です。
帰結主義的発想からすると、この行為は相手の快をもたらしていないため善ではありません。
その判断基準自体の善悪はありません。そう考える人はそうというだけであり、自身と異なるからといって誤りや悪になるわけではないのですから。
また、善悪の二元的発想に拘る必要もありません。
例えば帰結主義的発想から「相手が好まないプレゼントを贈ることは善ではない」と判断することと、「相手が好まないプレゼントを贈ることは悪である」の間には著しいまでの乖離があります。善ではないことはイコール悪ではなく、それはただ善ではないだけです。
道徳哲学による党派性
大まかに義務論と帰結主義の話をしましたが、これらはいずれも過度に傾倒すると党派性を帯びることになります。
義務論的発想が強い人は、より良くしたいという気持ちさえあれば後は結果がどうあろうとかまわないとまで思考が飛躍して過激化しかねません。それは同じ党派の仲間が犯した過ちに対しても善意や善心に基づく行為であるから許容されると免責する傾向を持ち、身内びいきや内集団バイアスに陥る危険があります。
帰結主義的発想が強い人は、より良い結果をもたらすのであれば手段はいかなるものであっても正当化されるとまで思考が飛躍して過激化しかねません。それは同じ党派の仲間が犯した過ちに対しても結果さえ良ければ許容されると免責する傾向を持ち、身内びいきや内集団バイアスに陥る危険があります。
要するに、いずれの道徳哲学を信奉していようともそれらへ過度に傾倒すると典型的な党派性の罠に陥ります。まさしく党派性とは「主義・主張などが特定の党派にかたよっていること」であり、己の信ずる道徳哲学が偏っているからこそ党派性が顕在化すると言ってもいいでしょう。
このような党派性を避けるためには、単純に道徳のバランスを保つことが必要となります。
義務論へ傾倒しているのであれば帰結主義を取り入れることです。「どれだけ善意であろうともカルト宗教への勧誘は悪である」と考えれば、義務論だけでは善を為し得ないこともあると気付くでしょう。
帰結主義へ傾倒しているのであれば義務論を取り入れることです。「結果が悪かろうとも善意それ自体には意味がある」と考えれば、他者の善意を蔑ろにする"傲慢"と呼ぶべき悪行を回避することができるでしょう。
どちらにしても自身の行為や結果を正当化するために道徳哲学を用いるのではなく、『より良くある』ために道徳哲学を認知することが必要です。
結言
相互に排他的と捉えず、より善に近づくであろう判断を用いることが最も善を最大化することに資するのではないかと私は考えており、その点で言えば功利主義的・帰結主義的発想が強いのかもしれません。
いずれにせよ、自縄自縛となりかねない主義主張への傾倒よりは善の最大化を希求する指向性にこそ価値があるのではないでしょうか。