忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

良し悪しを知り、悪しきを選ぶことを恥と呼ぶ

 

 悪いものを隠すのではなく、選び方を教えること。

 

アドバイスの取捨選択

 年度頭の時期になると、新たに環境が変わる学生や社会人に対する様々なアドバイスがネット上で溢れかえります。それらは全て赤の他人に対する口出しですので基本的には“お節介”ですが、そのほとんどは悪意なく悪行でもない、概ね有益かせいぜい無害な"善意のお節介"ですので、受け取る側が取捨選択して必要なものを取り入れればよいでしょう。

 

 ただ、この手のアドバイスそれ自体を批判的に捉える人もいます。

「他者へのアドバイスは上から目線のマウントであり受け入れる必要はない」

「大抵のアドバイスは役に立たないから聞く必要はない」

「新人にアドバイスをして近寄ってくる人は仕事ができない人」

などです。

 もちろんそれらの批判が全て的を外しているわけでもなくそういったパターンも現実にはあるでしょうが、必ずしもすべてのアドバイスがそういったものとも限らず、ただ玉石混淆であるだけです。無数にあるアドバイスの中には有益なものも含まれている以上、石を避けるために玉まで捨ててしまうのは勿体ないと思います。

 

 少し厭味ったらしく言えば、「アドバイスを聴く必要はない」とする意見ですら他者へのアドバイスであり自家撞着に陥っています。

 もちろんこれも善意の”お節介“かもしれませんので、聞き入れるか否かは受け取った人次第で良いかと思いますが、とはいえ「アドバイスを聴く必要はない」といった警句よりは「役に立つアドバイスを選んで受け入れる」ことを述べたほうがよほど意味を持ちますし、もっと言えば「役に立つアドバイスの見抜き方」が真に有益なアドバイスとなるでしょう。私もそれは知りたいです。

 

悪しきものを排除することの非現実性

 アドバイスの例に限らず、世の中には悪いものを視界から消し去ろうと考える人がいます。それが現実にできるのであれば誰も苦労はしないのですが、まあ理想の方向性としては理解できます。

 ただ、厳しい話ですがそれが実現できると考えることは"夢想"の域です。人には様々な主義主張があり、それによって善悪は変化します。万人が同意する不変的な善悪は存外無く、悪いものを排除していこうとすれば必ずどこかで壁にぶち当たるでしょう。

 雑に例示すれば、家族を大切にすることの善悪をどう捉えるかですら人によって差異が生じます

 家族を赤の他人よりも優遇することは差別ではなく善だと考える人もいれば、それは差別であるが社会的に許容されると思う人もいますし、差別だから無くしていくべきだとする人もいます。生粋の保守主義者であれば家族愛は真の善であり、原理的な社会主義者であれば家族愛は排除すべき悪です。

 このレベルですら良し悪しの判断は変わる以上、悪いものを消し去ろうとする行為がどれだけ混乱を招き実際には実現しえない非現実的な方向性かは容易に想像できるかと思います。それこそ世界中の人が一つの主義主張となるよう洗脳でもしない限りは不可能です。

 

 ただし、万人に共通する不変の善悪が存在しないのだとしても、昔は許容されていた行為が現代ではハラスメントとなるように、善悪の濃度はその時々に存在しています。

 よって悪いものを消し去ることを志向するのではなく、それよりも物事の良し悪しをその時々で判断する目を養う方向のほうが有益です。今は何が善で何が悪かを察せるようになれば、悪を消し去れなくとも悪を避けて善を選び取ることはできます。

 要するに、アドバイスの取捨選択と同様です。玉石混淆の玉石をまとめて捨て去るのではなく、石を避けて玉を選び取る方法こそが意味を持ちます。

 

結言

 厳しい物言いとなりますが、悪いものを隠されて育った人は良いものを選び取る能力を持たず、物事の良し悪しを判断できない人になるだけです。清濁併せ呑むことを許容できないのだとしてもせめて清濁の区別はつくように教えてあげる必要があり、そのためには清濁の双方を見せなければなりません。

 日本語の「恥を知る」とは、恥ずべきことを知り、または恥であることを自覚することを意味します。恥とは良いものと悪いものの中から悪いものを選びそれを問題だと思わないことであり、物事の良し悪しを学ぶことが「恥を知る」ことです。その区分を知らない人、あるいは知っていても悪いものを選び取ることを人は「恥知らず」と呼びます。