忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

異なる好みへの不快と、その向き合い方

 先日参加した飲み会が途中からあまり楽しめなかったと言いますか、少し愉快ではなかったので考えを整理していきます。

 

 不快の言語化はとても大切です、はい。

 

根が真面目と評されるのはむしろ遺憾

 飲み会自体は閉鎖的な環境で働いている職場によくある典型的な流れでした。最初はちょっとした世間話やジョークから始まり、アルコールが進むにつれてその場に居ない人の愚痴や異性の値踏みなどが始まります。「あの部署のあいつは本当に仕事が出来ない」や「あの部署のあいつなら幾らで抱ける?」といったような、まあそういった内容です。

 よく飲み屋で見かける普通の光景かもしれません。

 ただ、個人的にこういった流れはあまり好みではありませんので途中からどうにも楽しめませんでした。

 

 根本の性癖として、私は他人を悪し様に評することを好みません。深い意味や理由はなく、単純にそれが愉快だとは思えないためです。

 もちろん私も聖人君子ではありませんので他者の悪いところが目に付くこともあります。ただそれは面と向かって指摘するか、もしくはその人の個性の一種だと処理します。いずれにしても当人が居ないところで陰口のように語ることは、まあ単純に好きではありません。

 世の中には悪口や陰口は良くないこととした社会規範がありますが、私はその逸脱を不快に思っているわけではありません。社会規範を絶対視する善良で真面目な人間というわけではなく、本当にただ単純に悪口が個人的に嫌いなだけです。

 むしろこのただの個人的な趣味の差を「真面目」や「善」と評される方がよほど遺憾です。私は善(law)寄りの中立(neutral)を好む人間であり、善を好むものの他者が善を成さないからといってそれを問題視するつもりもありません。

 そのため、私のような考えを「真面目」や「善」と評されることには少しばかり無理解とズレを感じます。

 

クローズドな同調圧力とその是非

 次に、そういった社会規範からの逸脱を推奨する集団の同調圧力があまり好きではありません。つまるところはクローズド(閉鎖的)な集まりが根本的に肌に合わないと言えます。

 

 クローズドなグループは社会規範からの逸脱が行われやすくなります。

 それは例えば異性のランク付けをしたり特定個人の容姿や性格や能力を嘲ったりするような仕草が代表的なもので、クローズドな集団内では「本来は善いとされていない行動」を行うことで集団内の親近感を高める排他的・共犯的な行動が発生しやすくなります。

 

 私は個人の特性を否定することを好まないため、クローズドで同質的で排他的で共犯的なノリは積極的に参加しようと思えません。

 これについては前述した社会規範への認識と同様に、それ自体は善悪で峻別することではないと思っています。クローズドな関係性を居心地が良いと思う人も世の中には多数いますし、それを好まない人もいる、それらはただの好みの差です。私はそのクローズドな同調圧力を好まないだけの話であり、それ以上の是非や善悪は考える必要が無いと思っています。

 

異なるものへの付き合い方

 前述したように私は中立(neutral)を好んでいるため、自身の肌に合わない異なる社会やグループを排除したいとは考えません。そういったものを好む人も好まない人も両方が存在していいと思います。自身にとって好みでないならば距離を取るなり別のグループに所属するなりやりようは色々とあるわけで、自身の好みを他者に押し付ける必要はないでしょう。

 

 もちろんそういったクローズドなグループ、代表例を挙げればホモソーシャルな集団の有害性は昨今の社会問題として取り上げられることがありますし、その有害性から加害を受けた人が断罪を望む気持ちも分かります。

 それもアリです。

 善(law)も、中立(neutral)も、悪(evil)も、全てがあっていいと考えることが中立であり、私はそういった考え方ですので、「私は自身の好みを押し付ける必要は無いと考える」と同時に「他者が自身の好みを押し付ける行為も許容する」発想を持っています。

 好みの差の問題についてはそのくらいの温度感で向き合うことが最も合理的で、そして気楽ではないでしょうか。

 

結言

 私は「唐揚げ」が好きですが、世の中には「唐揚げ」を嫌いな人もいます。

 ただそれだけのことであり、この「唐揚げ」を別の何かに置き換えても同じことです。

 なにも善悪の概念を持ち出して断罪したり他者へ強要したりする必要はなく、好みの差はその程度の温度感で考えればよいのではないかと思っています。

 

 そして最も重要なのは、「私のこのような考え」それ自体が私の好みであり、それを他者へ強要することこそを避けることです。

 他者が異なる好みを持っていて私の好みとは違う行動をしていたとしても、その行動を許容することこそが私の好みであると認知できれば、他者の言動に煩わされたり一喜一憂する必要が無いことにも気付くことができます。

 

 と、ここまで言語化したことで、愉快ではなかった気持ちにも整理がつきなんとなくの納得感を得ることができました。

 

 

余談

 特に説明もなく【善】【中立】【悪】のアライメントを持ち出してしまったので、関連記事をリンクしておきます。