忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

有害な味方を排除することは倫理的に難しいため、看板を変えるしかない

 政治や社会問題を扱うクラスタでよく見かける現象の一つに「有害な味方」があるかと思います。

 それは例えば、先鋭化した攻撃的な見解をSNSなどで各所にばらまいたり、集団にとって不適切な他者と関係性を持っていたり、集団の理念から逸れた自論をまるで総意であるかのように言い立てたりすることで余計な敵を増やしてしまう、そんな味方です。

 あまり直接的な例示をして吊るし上げるのは好みではないので避けますが、まあありふれたパターンですので政治や社会問題に関心がある方であれば何らかの事例が想定できることかと思います。

 

有害な味方の対処方法

 この手の有害な味方を避けることは不可能です。

 人が集まれば必ず集団の平均的見解からズレた有害な味方は生じます。それこそ構成員を洗脳でもしない限り思考を均一化することはできませんので、そういった反社会的な手法を厭わざるをえない通常の集団では有害な味方を避けようがありません。

 よって問題とすべきは有害な味方を入口で検疫することではなく、紛れ込んだ有害な味方をパージ(排除)できるか、自浄作用を持って集団を健全化できるかです。

 ただ、それはあまり現実的ではないと考えます。

 少数であれば強引に切り離すことも可能ですが、生じた汚名を雪ぐにも限度がありますし、大規模化・長期化してしまっては手遅れです。有害な味方は集団の理念や骨子すら蚕食していきます。

 かと言って有害な味方を改質することも不可能です。本人はそれが正しい行いだと確信しているからこそ行動に移しているのであり、そして自らが正しいと確信している人は自らを洗脳しているのと同義であり、他者の洗脳を解くことは現実的に難しいものです。

 

人体とは違い、集団には代替性がある

 この問題を解消するためには人間の集団をあまり人体的に捉えず、むしろ機械的に捉える必要があります。

 つまるところ、ガン細胞のように悪くなった部分を除去するような考えではなく、健全な部分を除去して新しく組織化するほうがよほど合理的です

 つまりは看板を変えればいい、そういった話です。

 

 辛辣な表現となりますが、看板にこだわるのはコンコルド効果に過ぎません。たしかに今まで積み重ねてきた看板には大きな意味と愛着があるものの、有害な味方によって汚辱に塗れた看板を綺麗にするにも限度がありますし、他者の記憶の中にある看板までクリーニングすることはできません。

 重要なのは看板ではなく理念の実現であり、看板はそのための広報の手段に過ぎない、そういった割り切りが必要となります。

 

 もちろん看板を変える行為を忌避する人がいることも分かります。それはなんとなく狡いですし、格好のいい行為ではありません。

 ただ、だからといって看板の健全性を保つために有害な味方をパージする行為はより不適切です。それは率直に言えば思想信条の違いによって他者を排斥する行為に他ならず、やっていることは中世の魔女裁判や大日本帝国の特高と同じになってしまいます。看板を変える行為よりもよほど人権無視であり、現代的な倫理規範からすればそちらのほうがNGです。

 

結言

 格好を付けるために、或いは筋を通すために看板を保ちたい気持ちは分かるのですが、そのために人権を侵害する行為はやはり今のご時世では許容され得ないものだと私は考えます。

 現代の倫理規範に従うのであれば、有害な味方を排除するよりも健全なメンバーのみで新たな組織化をして健全性を示すことの方が妥当です。

 もちろん人の愛着はアンコントローラブルなものであり、そう簡単に割り切れないのではありますが・・・