A「仕事辛い、会社がブラックだ」
B「辞めちゃえばいい」B’「もう少し頑張ってみたらどうだ」
C「それは無責任な発言だ」
このような流れのコミュニケーションを時々見かけます。仕事に関連して、4~5月頃のSNSでは特に。
・何かしらを継続することへの疑義
・持続あるいは転換を推奨する助言
・その助言に対して無責任だと批判する指摘
この類の会話の流れで指摘される「発言の無責任性」について、思うところを述べていきます。
そりゃあまあ無責任だけども
責任とは行為自体や行為の結果に関して対処する任務や義務を指す言葉であり、他者の助言を聞き入れようが聞き入れまいがその結果を受け入れるのは本人でしかない以上、他者の助言は、それがどれだけ親身で真剣であろうとも、どれだけ適当で無意味であろうとも、本質的に無責任です。これを否定することはある意味で個人の自己決定権の侵害を許容するようなものであり、少し厳しい表現ですが人権侵害にすらなりかねません。
冒頭の例においても、最終的に仕事を辞めるかどうかは意思決定者である個人に責任があり、それに対する助言者の責任は存在しません。
つまるところ、「他者の助言を無責任だと指摘する言葉」は当たり前のことを指摘しているだけであり、建設的ではありません。
では、厳しいことを言いますが、助言者の無責任性を批判する人、「他者の助言を無責任だと指摘する言葉」に責任はあるのでしょうか?
当然、そこにも責任はありません。他者の言葉を無責任だと批判するその言葉も同様に無責任なものです。
双方が同様に無責任性を持つ中、『批判者自身が持つ無責任性への無自覚』が『助言者の親切心』に勝るものだとは個人的には到底思えません。
助言の存在価値
他者の言葉の何もかもが無責任なのであれば誰も彼もが黙っていればいい、と言いたいわけではありません。助言とは本質的に無責任なものですが、無価値なものではないからです。
他者の自己決定権を侵害しない範囲で行われる助言にはいくつかの効用があります。
一つは単純に選択肢の明確化です。
悩み事に囚われている時、人は視野が狭くなるものです。健全な状態であれば当たり前のように気付ける様々な道筋、無数にある選択肢が見えなくなってしまうこともあります。助言はその霧を僅かでも晴らして意識を他所に向ける切っ掛けとなり得るでしょう。時には自身では気付けなかった経路すら教示いただけることもあるのですから、助言はあるだけお得です。気に入らなければ採用しなければいいだけの話です。
また、物事の決断はメンタルを著しく消耗するものであり、誰もが常に自己の責任を明確なまま意思決定が行えるとは限りません。つまり、少し皮肉が過ぎるかもしれませんが、助言は過剰な自責を軽減する言い訳として役立ちます。
「誰かが言っていたから」と責任を転嫁するような行為はあまり健全な活用の仕方ではありませんが、世の中は綺麗事だけで回っている訳でもなし、多少他人のせいにしたとしても実際の行動に至れるのであればそれはそれで良しとなることもあります。
結言
他者の助言を「無責任だ」と批判する人の、自身の無責任性への無自覚が私は好みではない。ただそれだけの話でした。