忘れん坊の外部記憶域

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感情は拒絶するのではなく、すり替える

 嫉妬や軽蔑など、好ましくないとされる感情は様々あります。

 これらは内心に持つことさえ許されない拒絶すべき感情だとされがちなものですが、それは個人的には不適切だと考えています。

 今回はそんな『感情』について述べていきましょう。

 

感情の善悪

 そもそもの前提として、感情そのものは悪ではありません

 人が何かを軽蔑したり、嫉妬を抱いたり、憤慨したりすることを抑えることはできませんし、感情とはほぼ受動的、むしろ自動的なものであり、それに蓋をすることは不可能です。

 感情そのものが不適切なのではなく、感情のみに従って限度ラインを超えた言動に至ることが不適切となります。

 人が内心で他者を嫌悪したり軽蔑することは止められませんが、それを表に出すことはあまり適切ではありません。嫉妬や憤慨を抱くことは自由ですが、その感情に従って他者の足を引っ張ったり貶めたりすることは不適切です。

 

感情の拒絶

 また、感情とは表裏一体のものです。

 プルチックの感情の輪(Plutchik's wheel of emotions)からも分かるように、悪いと判定される感情を無くそうとする努力は同時に良いと判定される感情すら失うことに他なりません

 

 例えば嫉妬(Envy)悲しみ(Sadness)怒り(Anger)の応用感情です。

 よって嫉妬を抑えるためには悲しみと怒りを消し去る必要があります。

 しかし悲しみを消し去ると感傷(信頼+悲しみ)自責(悲しみ+嫌悪)のような自己診断機能すら損ねてしまい、他者の気持ちを勘案できない無責任人間が登場するだけです。

 あるいは怒りを消し去ると誇り(怒り+喜び)積極性(怒り+期待)のような前向きな気持ちまで損ねてしまい、自律して前進することのできない受け身人間が登場するだけです。

 これらは決して望ましい結末ではないでしょう。

 だからこそ、感情を拒絶するのは悪手です。

 

拒絶するのではなく、すり替える

 理想的には感情に支配された状態を避けることです。たとえ他者に嫉妬を抱いたとしても、その嫉妬心に焼かれて自身の心身を持ち崩したり、嫉妬心に従って他者の妨害へと至りさえしなければ、感情を持つこと自体は悪ではありません。

 とはいえそれは難しいことでもあります。無理に感情の支配を脱しようともがくことと感情を拒絶することは近似するものであり、それは万人ができることではありませんし前述したように望ましいことでもありません。

 

 実のところ話は簡単です。

 感情を拒絶するのではなく、支配されるのでもなく、すり替えてしまえば良い話です

 感情自体は自動的ではありますが、無自覚的で無くすことはできます。マインドフルネスなどで謳われているように、今自らがどのような感情を持っているかどうかは客観的かつ自覚的に掌握することが可能です。

 今現在の感情を把握したら、後は別の感情を組み合わせることで別の感情にすり替えてしまうだけです。そのほうが感情を抑えたり拒絶したり無視したりするよりも現実的で効果的だと言えます。

 

 例えば嫉妬の基本感情は悲しみ怒りです。

 そこに嫌悪期待をブレンドして、自責(悲しみ+嫌悪)と積極性(怒り+期待)とすることで、嫉妬によって他者を貶めるのではなく前向きな自己変革へと進むポジティブな感情にすり替えることが可能です。

 もちろんブレンド加減には訓練と技術が不可欠です。悲しみと期待が混ざると悲観が生じ、怒りと嫌悪が混ざると軽蔑が生じます。嫉妬から悲観と軽蔑にすり替わっては、ロクな結果には至らないでしょう。

 

 他にも、例えば不安期待恐れの応用感情です。それはつまり、恐れ信頼を入れ替えれば希望(期待+信頼)へと転ずることが可能です。

 

結言

 何はともあれ必要なのは、感情を拒絶することではありません。それは人間にはほぼ不可能ですし、決して良いことではありません。

 それよりは自身が今抱える感情を客観的に認識し、自分の都合が良いように感情を操作し、すり替え、望ましい状態へと移行することが望ましいと言えます。

 そういった感情のブレンド、すり替え技術は生きる上での自らの心の平穏に役立つことでしょう。