思考や意見、情動や言動、それら個人から出力されるものは、個人の一部ではありますが個人そのものではありません。
それらは個人の持つ機能から出力された結果であり、個人がその機能を持っていること自体は事実ではあるものの、その機能単独が個人の全てではありません。
個人とは機能の集合体です。
たとえ余計なことを考えてしまったとしてもその考えがその個人の全てを構成しているわけではなく、たとえ気に入らない意見を言う他者が居たとしてもその意見がその他者の全てを規定しているわけではありません。
観測された一部の出力のみに頼って全体を類推する際には注意が必要であり、ましてや一部の出力が全体を代表していると考えることは認知バイアスに他なりません。
単純化した例示
例えば旅館で朝食を頂くとしましょう。
「この漬物は少し口に合わないけども、この魚料理は美味しかった。デザートはとても好みだったが、白米はもう少し固い方が好みだ」
この程度に個別で是々非々を判定することは妥当です。
それに対して、
「この漬物は口に合わない、だからこの朝食は駄目だ」
と判定するのは過剰です。その漬物が朝食の全てではない以上、少なくとも論理的には不適切です。
これは人間でも同様です。
「なんであんなことを言ってしまったんだろう、私は駄目な人間だ」
”不適切であると思われる思考や言動をしてしまったこと”と、そこから”私は駄目な人間”とする結論を見出すことには論理的な瑕疵があります。その出力や機能は個人の全てを構成するものではありません。
「なんであんなことをするんだろう、あの人は嫌いだ」
”好ましくない行動”と、”それを行った他者”はイコールではなく、出力である行動は個人の部分集合に他なりませんし、その行動をもたらした機能は個人という集合の元に過ぎません。
ひとつの料理が口に合わなかったとしても、その朝食全体が駄目かどうかは別の話です。
つまりはメタ認知
たとえ好ましくない部分を持っていたとしても、それが全てではない以上は自己や他者そのものに嫌悪を抱く必要はありません。
もっと言えば、「抱いた嫌悪感情」すらも嫌悪する必要はないものです。それは個人の持つ機能の一つに過ぎません。
個人を機能の集合体として見ること。
それは自分を自分から切り離して観察する機能を持つことであり、つまりはメタ認知です。
適切なメタ認知によって個人と機能を分離することが出来るようになれば、やたらと自己や他者を嫌悪すること、そして嫌悪してしまうことを嫌悪すること、すなわち自己嫌悪や他者嫌悪から逃れることが可能になります。
結言
もちろん必ずしも合理的な判定を下す必要があるわけでもなく、一部を見て全体を否定することは別に個人の自由です。これは善悪の話とは異なり、個人の好悪のレベルの話です。
ただ、”自己や他者を嫌悪してしまうことを嫌悪する人”、すなわち自己嫌悪に陥りがちな人や他者につい攻撃的な排除感情を抱いてしまうことを好まない人、そういった方々には個人とは機能の集合体であるとしたメタ認知的思考をお薦めしたいと思っています。
余談
「嫌い」と「悪」には差異があり、嫌悪の対象は個人にとっては悪かもしれないが、それが社会的な悪とは異なることもある、という話。