忘れん坊の外部記憶域

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新しいものが必ずしもベストな選択とは限らない:フロン冷媒を事例として

 新しい技術や手法が登場する度、ドラスティックな社会導入を推し進めようとする動きが発生します。

 もちろんそれは必ずしも悪いことではなく、新しい技術や手法は現時点で社会に存在している課題や問題を解決する見込みがあり、それらを迅速に導入することは公益に資するものです。

 ただ、あまりにもドラスティックに全体を変革してしまうことはそれ自体が一種のリスクを孕むものとなります。一斉に変えた結果、それが問題だった場合は取り返しのつかない事態へと至りかねないためです。

 

 今回は熱力屋の目線から冷媒を事例にドラスティックな変革に潜む問題を論考していきます。

 

理想の”安全冷媒”

 冷媒とは冷凍サイクルにおいて熱を移動させるために回路内を循環している熱媒体です。身近な例で言えば冷蔵庫やエアコンの中に入っており、この物質が熱を運ぶことで庫内が冷えたり部屋が温かくなります。

 有名な冷媒であるフロンは熱力学に興味がない人でも一度は聞いたことがあるでしょう。オゾン層を破壊したり地球温暖化を促進したりする悪いやつです。

 フロンは様々な条約や法律によってすでに規制されており、現代の冷媒はオゾン層を破壊しない代替フロンや地球温暖化への影響が少ない自然冷媒が用いられるようになっています。

 

 かつてはほとんどの冷凍空調機器にフロンが用いられていました。

 では、なぜそんな悪いやつであるフロンが広範に用いられていたのでしょう?

 もちろんかつてはフロンがオゾン層を破壊したり地球温暖化を促進するといった事実が判明していなかったこともあります。

 しかしそれは普及の理由ではありません。フロンが普及した理由は単純で、フロンは当時からすれば最新最先端の夢の化学物質、理想の”安全冷媒”だったからです。

 

冷媒の歴史

 物質を冷やす技術自体は紀元前からありましたが、人類が化学的に低温を作れるようになったのは16世紀、工業的に低温を作れるようになったのは19世紀からです。

 当時の冷凍機に用いていた冷媒はアンモニア・空気・水・炭酸ガス・亜硫酸ガス・炭化水素・メチルクロライドといった自然冷媒が主流でした。

 特に使われていたのはアンモニアです。価格が安く、冷凍効率も優れており、漏洩の検知が容易だったためです。

 しかしアンモニアには毒性と燃焼性があるため漏洩すると人命にかかわる危険がありました。また少しでも水に接触してしまうと強アルカリ性のアンモニア水となって一部金属を侵すため、取り扱いも難しいものでした。さらにアンモニアには刺激臭があり、漏洩した場合はその臭気が食品や冷蔵物に移ってしまい品物を駄目にしてしまうことも課題でした。

 このような欠点がありつつもアンモニアが使われていたのは、熟練した作業者による保守管理が行われていたことと、他に優れた冷媒が無かったからに他なりません。

引用:昭和36年11月15日発行 『冷凍機実務テキスト』33p

現在わが国においてアンモニヤが冷媒として使用されている例はなお非常に多く、これは製氷冷蔵など古くから冷凍設備を有している所において特に著しい。しかもこれらの設備は大方が比較的大容量のものであるが、訓練された保守員の力が事故の未然の防止に寄与している所が大きいことを見逃してはならない。

しかし火事とか爆発とか有害とかの事故の可能性は、依然としてアンモニヤ自身に内蔵されている訳であるから、安全ということを何よりも優先して考慮せねばならぬような設備にはアンモニヤは不適である。例を挙げれば船舶や劇場、病院、ホテル、学校、オフイスなど公衆の集る場所はその範疇に入る。ここで用いられる冷媒はたとえ安全性以外の特性が、アンモニヤや亜硫酸ガスなどに比べて劣っていても、それは第二義的な要素としか考えられない。

 

 しかしながら冷凍空調の需要は高まる一方であり、人力による管理には限界があります。よって世界はアンモニアに変わる、より安全で、扱いやすく、効率の良い、理想の冷媒を欲していました。

 そんな時代に登場した冷媒がフロンです。

引用:昭和36年11月15日発行 『冷凍機実務テキスト』24-25p

今日このように冷凍工業が盛況を呈するにいたったゆえんはむろん時代の趨勢に負うところが大きいであろうが、戦後初めて一般に紹介せられたいわゆる“安全冷媒”フロンの果たした役割も決して看過出来ないと思う。本文では何故にフロンが従来のアンモニヤをはじめとするあまたの冷媒に取って変わりつつあるかを、冷媒として好ましい諸条件と対比しながら、順を追って説明したい。

引用:昭和36年11月15日発行 『冷凍機実務テキスト』38-39p

30年前にはフロンと云う名の冷媒はまだ世に知られていなかったが、科学的に安定で、毒性がなく、しかも不燃性の冷媒に対する要望に対えるべく研究は着々と行われていた。T.Midgley博士と、A.L.Henne博士とが、1個あるいはそれ以上の弗素原子を持つハロゲン化炭化水素が前述の条件を満足し、しかも冷媒として熱力学的にも理想的な特性を有することを発見した。1930年4月に初めてこれら冷媒群の総称であるフレオン(Freon)と云う名で一般に発表し、翌年からKinetic Chemical社――現在Du Pont社に併合――によって市販せられた。その後これら弗化炭化水素の化学的、物理的ならびに熱力学的諸性質が相ついで公表せられ、また実施に応用されてその優秀さが実証されるにおよび、在来の如何なる冷媒よりも理想的な冷媒に近いものとして、あらゆる領域に進出し今日の盛況を見るに至った。

 フロンはアンモニアの持つ欠点を全て解消した冷媒、すなわち安全で毒性がなく、燃えず、臭いも無く、よく冷えて取り扱いやすい理想的な冷媒として市場を席巻することになりました。

 

結言

 確かに、社会の課題を解決すべく開発された新しいものは既存の問題を解消してより望ましい社会の実現を果たすことでしょう。

 しかし必ずしもそれが将来的にベストな選択とは限らないこと、新たな問題を生じかねないことについての懸念と理解が必要です。

 現代では蛇蝎の如く忌避されているフロンですら当時は『在来の如何なる冷媒よりも理想的な冷媒に近いもの』として喝采を浴びて社会に進出したことは、その後の人類社会へ与えた功罪を含めて新技術を社会へ導入する際に留意しておくべき歴史的事実かと愚考します。

 

 

余談

 確かにフロンはオゾン層を破壊し地球温暖化を促進する悪いやつですが、フロンの登場は家庭用冷蔵庫やコールドチェーン技術の発展を促し、食料の長期保存を可能にしたことで安全で栄養のある生鮮食品を広域に流通できるようになりました。

 そんな功罪の"功"の部分もあることは熱力屋として述べておきたいです。

 

 ちなみに現在はアンモニアや炭化水素、炭酸ガスなど自然冷媒への回帰路線が主流になっています。技術は常に一直線に進むとは限らず、何とも面白いものです。