忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

ステレオタイプ的認知との付き合い方

 

 「何を言ったか」が一番重要ではあるものの「誰が言ったか」「どう言ったか」も留意はしないといけない、とした考えを私は度々述べてきました。

 

 それに関連して先ほど思い付いた小話をします。

 子どもが「大好きなのはヒマワリの種」と言うのと、おじさんが「大好きなのはヒマワリの種」と言うのでは、明らかに周囲の受け取り方は変わると思います。

 そう考えると「誰が言ったか」はやはりどうにも無視できない程度に大きなファクターでしょう。前者であれば「ああ、とっとこハム太郎が好きなのかな?」と思うでしょうが、後者は「なに言ってんだこのおじさん」と周囲がドン引きするかと思います。

 

 いや、まあ、先程頭の中でとっとこハム太郎のテーマソングが唐突に流れたので。

 何故か昔聞いたことのある曲が頭の中に出てくる時ってありますよね。

 

ステレオタイプ的認知は基本否定されるべき

 さて、おじさんが「大好きなのはヒマワリの種」と言った場合に周囲が気味悪く思うのは、私たちのステレオタイプ的認知から大きく外れているためです。

 ステレオタイプとは要するに固定観念のことです。『いい歳をした男性』にはそれに相応しい言動があるとした固定観念・マインドセットを私たちは持っているため、そこからの乖離があるとそれを心地悪く感じます。

 

 現代ではこのようなステレオタイプ的認知を排除していくことが善だとされる規範が形成されつつあります。

 代表的なものは「男なんだから」「女なんだから」といったジェンダーロールの否定です。それ以外にも年齢・職業・人種・民族、その他様々なもののステレオタイプ的認知を否定することが正しいとされています。

 もちろんその傾向自体は妥当なものでしょう。ある属性を持つ人が特定の傾向を持っていることが分かったとしても、その属性を持っている人がその傾向通りかどうかは確定されません。ステレオタイプ的認知はいわゆるマクロ的な視点であり、それがミクロな個別の人間に適用できるとは限らないのですから。

 簡単な事例として、「男性は女性と比較して力が強い傾向を持つ」ことは統計的事実であり、しかしそれは傾向に過ぎません。男性よりも力の強い女性や、女性よりも力の弱い男性は当然居ます。

 よって「貴方は男性だから女性よりも力が強いはずだ」としたマクロなステレオタイプをミクロの個人に押し付けることは論理的に不適切です。

 

ステレオタイプ的認知の否定が生む弊害

 ただ、全てのステレオタイプを排除し切れるかと言えばそれは不可能ですし、社会的に有害な場合すらあります。

 例えば私たちはスーパーやコンビニで買った飲み物を何も考えずに飲みますが、それは典型的なステレオタイプ的認知の一つです。飲食物をそのまま喫することができるかどうかは絶対的なものではなく、それが何を材料にどう作られているかを見ていない以上、本来は不安に思ってもいいはずです。そういったことを考えずに私たちが安心して食べたり飲んだりすることができるのは「日本の小売店で購入した飲食物はほぼ100%安全である」とした固定観念・ステレオタイプのおかげに他なりません。

 実際、飲食物の安全が疑われるような事件や事故が起きると人々は今までと同じ材料で同じ製法で同じ物流で同じように購入したものであっても不安を覚えます。飲食物は何も変わっておらず、変わるのはそれを受け取る側の認知のみです。つまり安全だと思っていた認識自体がステレオタイプだったことの証左だと言えます。

 この手のステレオタイプは排除し切れません。「日常的に使っているPCやスマートフォンが突然壊れないと信じているのはステレオタイプであって、ステレオタイプを排除して実は急に爆発するかもしれないと不安になるべきだ」、そんな風にありとあらゆる思い込みを潰そうとしていては時間がいくらあっても足りません。私たちは日常生活を無事送るために適度な範囲でステレオタイプに頼っていく必要があります。

 

 また、ステレオタイプだから排除しようとする行為は現実と乖離してしまうこともあります。

 例えば「若年層はお金を持っていない」は一種のステレオタイプです。実際に若年層は高齢者よりも資産を持っていないことは統計的事実ですが、実際の保有資産は個々人で大きなばらつきを持っています。

 そういったマクロな事実に基づいたステレオタイプまで否定して「若年層はお金を持っていないとは限らないから若年層への金銭的な支援は不要だ」としては、本当にお金のない人は困ってしまうでしょう。

 

結言

 結局のところ、完全にステレオタイプ的認知を排除することは現実的ではありません。私たちは日常をステレオタイプに頼って生きています。

 ここで問題視すべきは実のところステレオタイプそのものではなくマクロなステレオタイプをミクロな個人に押し付けることです。個人が個人の範囲でステレオタイプを用いるのであれば何も問題はなく、「男なのだから」「女なのだから」「若者なのだから」「高齢者なのだから」とステレオタイプを他者へ押し付けることが問題だと定義すべきです。その問題はステレオタイプを排除することよりも現実的な啓蒙による解決を目指せることでしょう。

 

 「火は危険だから火を使わないようにしよう」とするのではなく、火の危険性を認識して他者へ向けないようにすること。それが必要です。