忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

Follow the science(科学に従え)の”科学的な不適切さ”

 

 科学の徒としては、科学は物事を決めないことを常に意識していたいと思っています。

 価値判断と意思決定を行うのは常に政治であり、科学の仕事ではありません。

 

Follow the science!(科学に従え!)

 英語圏の情報を追っていると時々見かけるフレーズに"Follow the science"があります。直訳すると『科学に従え』で、気候問題や公衆衛生問題でよく用いられるワードです。日本でも疑似科学や反知性主義への対抗言論として類似の言葉が用いられています。

 もちろん私も工学屋の端くれとして科学的合理性を信仰しています。客観的なデータ、合理的な証明、検証可能性の存在は、物事を決める上で最も適切な共通言語だと信ずるばかりです。

 

 Follow the scienceは魅力的なフレーズではあります。

 科学的合理性は政策決定の根拠として堅牢ですし、透明性も高く恣意的な判断だとした批判を遠ざける効用を持ちます。同時に、科学的な根拠は党派性や政治的対立を超えた共通基盤となり得るため、社会の信頼維持にも役立つことが期待できます。

 なにより科学的知見に基づいた専門知の尊重は実に妥当です。素人よりは専門家のほうが大抵の事柄において正解を引き当てる蓋然性が高いと言えるでしょう。

 

「科学に従え」への批判

 ただ、Follow the science(科学に従え)のフレーズに対して私はあまり同意していません。

 

 何よりもまず、科学は単一の答えを持ちません。中世近代であればいざ知らず、科学とは絶対的な真理に到達するのではなく「今現在、最も確からしい」「より正しいとされる知識」を実証と反証のプロセスを通じて絶えず更新していく営みであり、科学は常に暫定的です。

 よってFollow the science(科学に従え)という表現は、科学の本質を誤解させるリスクがあると考えます。

 

 また責任回避のレトリックになりやすいのも懸念点です。

 「科学がそう言っているのだから」と主張することで自らの意思決定や政策決定に対する判断の責任を回避する戦略として使われる可能性があります。

 同時に、前述したように科学は単一の答えを持たないため、党派性によって「どの科学を引用するか」も差が出る以上、本来はその選択の責任を負う必要があるのですが、Follow the scienceはそれを回避するレトリックとしても成立してしまいます。

 

ヒュームの法則

 そして何より、科学と意思決定はまったく別物です。

 科学とは共通言語、すなわち道具であり、物事を決めるのは人間同士の話し合い、すなわち政治の領域です。

 道具は意思決定を行いません。

 意思決定をするのは常に人ですし、人であるべきです。科学にその責任転嫁をすべきではないでしょう。

 

 科学は因果・予測を記述します。

「Aをすれば X が起きる」

「Bをすれば Y が起きる」

 ここまでが科学です。

 しかし「XとYのどちらが望ましいか」は価値判断であり、科学の領域ではありません。

 

 簡潔に言えばヒュームの法則(Is-ought probrem)です。

記述的な言明(is: ~である)からは、規範的な言明(ought: ~すべき)は導き出せない

 科学が示すのは記述的な言明までです。

 

 凄く嫌な事例を示します。

「Aをすれば1000万人が助かる」

「Bをすれば1000万人が死ぬ」

 このようなパターンがあったとして、それでも、ここまでが科学の仕事です。

 議論の余地なくAを選ぶべきではありますが、規範的な「どうすべきか」は価値判断であり、その選択に伴う自由・権利・経済的影響をどう扱うかは政治の領域です。

 科学は唯一の正解を示しません。

 命の価値をどう数えるか、個人の自由と集団の安全をどう調整するかといった価値判断は科学の名のもとに覆い隠すべきではなく、ちゃんと議論の上で意思決定を行う必要があります。

 

 以上より、Follow the science(科学に従え)は科学が価値判断まで決めるかのような誤解を生むスローガンであり、科学の本質を取り違えかねないリスクのあるフレーズだと考えます。

 

結言

 繰り返しとなりますが、科学は意思決定を行いません。

 あくまで現実を記述し事実を共有するための共通言語です。

 価値判断や意思決定は人間が話し合って決めるべき政治の領域であり、少なくとも民主主義的価値観を重視するならば科学に責任を押し付けるべきではありません。