昨今に限った話ではありませんが、学問や科学において何らかの疑いが発生した際に紛糾するのが『正しさは何が担保するのか』という論争です。
もっと単純化すると『頭のいい学者先生の見解が正しいのか、そうではないのか』という点において揉める場合です。この手の論争は多くの場合でエリート主義と反エリート主義に陣営が分かれて面白みの無い投石合戦になってしまいます。
その解決方法を提供できるわけではありませんが、思うところを述べてみます。
エリート主義と反エリート主義
エリート主義(知性主義)は優れたエリートを重視したりエリートに物事の判断を委ねる思想です。優れたエリートによる判断は多くの場合で適切であり、そのためより効果的な社会運営や意思決定を行うことができますが、度が過ぎれば専制政治や教条主義に堕します。
対して反エリート主義(反知性主義)は大衆主義とも呼ばれるもので、エリート主義に対して懐疑的、又は否定的な意見を持つ思想です。たとえ間違えたとしても民衆による意思決定を重視しており、それはより民主主義的ではありますが、度が過ぎれば衆愚政治や知性の喪失に繋がります。
これらはどちらが正しいというものではなく、いずれも度が過ぎれば望ましからぬ結果をもたらすものであり、双方のバランスを取って極端に走らないようにする必要があります。
エリート主義への所見
人の世において学問や科学の正しさを担保するものは現時点で人類が持ち得る知性です。学問や科学は多数決ではありませんが、少なくとも個人の思い付きや基礎知識の無い人が考えることよりは現時点で多数の知性が正しいだろうと判定している事柄こそ最も正しさの可能性が高いのであり、査読無し論文より一流ジャーナルに掲載された査読付き論文、個人のサイトより新聞記事、門外漢の見解より専門家の見解のほうが正しいだろうことは疑う余地がありません。よって優れた知性を持つエリートこそが学問や科学の正しさを担保するものです。
しかしそれは可能性が高いのであって絶対的なものでないことを忘れてはいけません。学術的研究や査読論文に対する反論は同じ土俵でなければ認めない、というような態度はあまり望ましいものではなく、象牙の塔に引き籠るような姿勢を取っては権威主義との誤解を受けかねません。
確かに学問や科学は知性の積み重ねであり、脆弱な根拠に基づく理論を土台とすることは避けなければならないでしょう。有象無象の雑多な反論を全て受けることは出来ませんし、同等に強固なエビデンスを保有した反論以外に価値は無いという考えは分かります。しかしそれは学者の一面的な言い分であり、別の側面もあるわけです。
学問や科学への資本を投資しているのは人間の社会そのものです。学問や科学の研究成果を必ずしも社会に還元すべきだとは考えませんし、そのような考えはむしろ真理の追究を阻害しかねない不適切な考えだとは思いますが、しかし投資者である社会への説明をする必要はあります。社会に自らの知性の結晶を公表するのであれば、その無謬性は学者内だけでなく社会にも説得する必要があるのです。
反エリート主義への所見
定説と思われていた観念や公理が必ずしも正しいわけではなく、時に従来までの理論を覆すような新奇な発想が学問や科学を発展させることがあります。よって教条的にエリートの成果を盲信するのではなく、科学的懐疑主義の視点で従来の理論や定説を疑うことには価値があると言えるでしょう。
しかしそれは安易に乱用されるものであってはなりません。学問や科学の正しさを担保しているものは私たち人類が持ち得る知性であり、さらに換言して言えば知性への信頼です。私たち人類が知性によって積み重ねてきた理論が今のところ最も正しいだろうという信頼こそが学問や科学の正しさを担保しているのであり、その信頼に従うことは決して権威主義ではないのです。
闇雲に懐疑的視点による論争を乱用することは、一理論を打ち崩すつもりが学問や科学といった知性の結晶の土台そのものを壊しかねないものです。定説や研究結果を覆したいのであれば学問的・科学的態度を守らなければなりません。
また、確かに定説や査読論文が必ずしも正しいわけではありません。しかし少なくとも現時点で最大のエビデンスを保有していることは素直に受け入れるべきです。懐疑的な反論は対象の無謬性を弱める可能性があるものではありますが、しかし反論自体の無謬性を保証するものではないのですから。必ずしも同じ土俵に立たなければならないとまでは言いませんが、反論側も同様に強固なエビデンスを築き上げる努力は不可欠です。
さらに言えば、定説を覆すような異論を拒絶された際、学会は異論を認めない権威主義者の集まりだ、というような批難をすることは無意味です。彼らは正しく科学的懐疑主義に則ってその異論に反対しているのであって、『自分が反論することは許されるが相手が反論することは許されない』という姿勢を取るべきではありません。それでは『査読論文への批判は同じ土俵でなければ許されない』というような権威主義的な学者と同じ穴の狢です。
双方への所見
エリート主義と反エリート主義はそれぞれ必要な態度であり、無思慮に対立するのではなくバランスを取り合うべきだと考えます。エリートは人々からの信託を受けて社会資本を投入されていることを忘れずそのことに敬意を示し、同様に在野の人々は優れた知性を持つエリートに敬意を示す。相手に敬意を示さずに敬意を受け取れるはずもなく、敬意と信頼には双方向性が必要でしょう。それぞれの言い分を聞かずに価値観を分断することこそがもっとも「正しさ」を担保することから遠ざかるものであり、学問と科学、さらには知性の価値を損ねるものだと考えます。
余談
エビデンスの強度を気にせず手当り次第なんでもかんでも報道してしまうメディアが実は一番の問題かもしれません。とはいえ個人的には両論併記を望みますし、報道による注目と研究予算の関係もあるので、やはり一概に悪いとは言えないのが難しいところです・・・