忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人々が愚かであることを受け入れなければ民主主義は成り立たない

 人には「他人が馬鹿に見える」時があると思います。

 それは疲労などによって自身の想像力が衰えていたり、他者の愚かな一側面しか見えていない場合であったりすることが多いものです。

想像力というものは何らかの要因によって一時的にせよ恒久的にせよ衰えます。そのような事象が起きている場合、(もしかしたらこういう考えをしているのかも)、(もしかしたらこういう意図を持っているのかも)、というような想像が出来なくなってしまうため、相手が思慮の浅い馬鹿に見えてしまうわけです。

ある一面や発言を見てその人の知性全体を判断するのはあまり適切ではありません。ある分野において自身よりも『考えが浅い』考えの程度が低い』知らないことが多い』と思ったとしても、別の分野ではそうではないかもしれないのですから。

 

 とはいえもっと単純に、本当に相手が馬鹿な場合もあります。

 それはそれで普通のことです。あらゆる面で完璧な人間はおらず、人は誰もが愚かな側面を持っている以上、時に愚者となることは誰にも避けようがありません。

 相対的に見ても同様です。嫌味な表現となりますが、平均的な知性の持ち主からすれば世界の半分は自身よりも知性の劣る愚か者です。平均以上の知性の持ち主であればさらにであり、世間の大半が愚かに見えるのもやむを得ないことでしょう。

 

知性の差は「ただ差がある」だけの話

 ただ、誤解してはいけないことがあります。

 知性の差は正邪・善悪を選り分ける基準ではないことです。

 他者が愚かだとしても、それは悪いことではありません。足の速い人が足の遅い人を悪だとは認定しないように、大食漢が小食な人を邪だとは認識しないように、知性の差もただ差があるというだけです。

 

 知性の差に価値基準を置き過ぎてこの点を誤解してしまうと、民主主義を阻害する思考に至る可能性があります。

 それは「人々は愚かで、政治に関心が無く、理解すらしていない。正しく学び、優れた知性を持った人が彼らを啓蒙しなければならない。愚かな人々に意思決定をさせるべきではなく、我々こそが正しい政治的決断を下すべきだ」といった選良主義(エリート主義)です。

 

 少数の優れた人々が差配する政治をなんと定義するか。

 それは少なくとも民主主義ではなく、ただの独裁専制でしょう。知性の差に重きを置き過ぎるといずれこの手の思想に陥り、民主主義の阻害要因となります。

 

民主主義は失敗できることが強み

 もちろん衆愚政治を恐れて選良主義に傾倒する気持ちは分からないでもありません。政治の失敗は可能な限り避けたいものですし、知性はそれを避けるために役立つ道具の一つです。

 ただ、衆愚政治を恐れるのであれば、衆愚を排除するのではなく教育に力を入れる方向へ舵を切るべきです。民主主義は構成員によって意思決定が為されるから民主主義足り得るのであり、その前提を否定してしまっては民主主義の敵と成り果てることは必定です。

 

 知性に価値基準を強く置いている人は失敗を恐れるようになります。失敗は知性の敗北と感じ、自らの知性と価値に疑念を抱かせる原因となり得るためです。エリートである官僚組織や大企業の幹部が失敗を認めず無謬性の原則に陥っていく光景は世界中どこでも見ることができるでしょう。

 そのような人々が衆愚政治を恐れて選良主義に傾倒するのも同根です。失敗を恐れ、失敗を避けたい気持ちが「正しい選択を出来るであろう」選良主義に引き付けられます。

 ただ、民主主義は必ず失敗をする仕組みだということは留意しなければなりません。もっと正確に言えば、民主主義は失敗を許容できる仕組みです。独裁や専制は常に正しい選択をし続けなければならず、トップ層の選定に一度でも失敗した時点で崩壊します。しかし民主主義は駄目な人をトップに据えても駄目だったら交代させることが出来る、その点で他の仕組みよりも遥かに安定的かつ持続的であり優れています。

 つまり、民主主義は衆愚に陥る危険があるものの、衆愚によって失敗してもなんとかなることが強みです。そのための回避機能として選挙がある以上、衆愚や政治の失敗は懸念こそすれ民主主義の前提を崩壊させるまで恐れる必要はありません。

 よって衆愚を避けて失敗の可能性を減らすのであれば選良主義を選ぶよりも教育に力を入れる方が民主主義的です。

 

結言

 知性の差は、ただ知性に差があるだけのことです。それはその側面での優劣ではあるかもしれませんが、善悪や正邪を絡める話ではありません。この点を誤解すると民主主義の敵になりかねないことは留意される必要があると愚考します。

 

 

余談1

 頭が良いことは凄いことだが、偉いわけではないことを頭が良い人ほど理解していなければならない、それだけの話です。

 知性の優劣ではなく、愛や気遣い、親切や情、そういったものを他者に示せる人こそ道徳的に見れば偉い人でしょう。頭が良いことは頭が良いこと以外のなんでもありません。

 

余談2

 民主主義は失敗を許容できるとはいえ、失敗して痛い目を見るのは民衆ですので、失敗を恐れるのであれば衆愚を排除するのではなくデモをするなり選挙に行くなりしましょう。それが民主主義的です。