忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

ポピュリズムの台頭とその是非

 政治や宗教、ジェンダーや環境といった党派性の強い話題は記事を書きやすいものの、正直なところ書きにくいです。

 これらはそれこそ一人一党のテーマであり、誰しも一家言持っていて一人一人で意見が異なるものですので、思うところを書けばそれだけで簡単に記事になります。

 しかしそれは同時に他者の見解との相違やすれ違いが容易に起き得るというわけで、特に闘争を求めていない私としては及び腰になるわけです。喧嘩は嫌いです。和をもって尊しとなしたい派です。だからこそいくらでも書けるけどあんまり書きたくない、そんな気持ち。

 いえ、まあ、言い訳がましくそんなことを言いつつも結構な頻度で党派性の高いテーマを取り扱っている駄ブログではありますが。一応は争いにならないよう細心の注意を払って、偏らないように各方面の意見を記述しているつもりではあります。宗教・政治・野球の話は社会ではするな、というのは実に素晴らしい先達の知恵だと思うばかりです。

 というわけで、今回は政治、特にポピュリズムの話をしましょう。前置きは一体なんだったんでしょうね。

 

ポピュリズムに関して

 ポピュリズムとは大衆主義のことで、エリーティズム(エリート主義)の対義語に当たる言葉です。一般的に好意的な用いられ方をすることは無く、甘い言葉で大衆を扇動するような政治を批判する際に用いられることから、大衆迎合主義、衆愚政治というような訳語とされる場合もあります。

 ポピュリズムは批判的に用いられますが、安易な批判は危険でもあります。民主主義というものが民衆による意思決定システムである以上、ポピュリズムという批判は民主主義そのものの否定になりかねないためです。

 また権力者たるエリート層が固定化された場合、その集団は必ず腐敗します。権力の腐敗を監視するという意味においてもポピュリズムは必要不可欠です。

 もちろんポピュリズムこそが民主主義の神髄だというわけでもありません。何故ならば民衆が常に正しい判断を行えるわけではなく、頻繁に錯誤や認知的不協和に陥って選択を間違えるものだからです。どれだけ個々では優れた人々が集まったとしても集団・民衆となった際には群集心理や集団浅慮に陥ります。

 よってポピュリズムは安易に否定せず、しかし暴走しない程度にバランスを取って用いられることが望ましいものです。

 

ポピュリズムの台頭

 日本はポピュリズムが弱い国だと言われています。日本人の目線からすればそうではないという異論もあるでしょうが、他国と比べれば相対的に弱いとされているのが実情です。

 比較対象とされるのがアメリカのトランプ、イギリスのBrexit、フランスの国民戦線、イタリアの五つ星運動、ドイツのAfD、ウクライナのゼレンスキー大統領やアルゼンチンのペロニスタ党といった典型的ポピュリズムが相手ですので、それらと比べれば日本のポピュリズムは弱いとされるのも当然かもしれません。

 ポピュリストの主張は一般的に「反グローバリズム」「反移民・排外主義」「反エリート・反既得権益」で分類することが出来ます。それぞれの国家において課題となっているものによって主張は変わりますが、概ね低所得層や中間層の市民が不満を持っている課題の解決を謳うものです。

 つまるところ第一に不安定感・不平等感が増してくるとポピュリズムが台頭し始めます。特に人数の多い中間層の地位劣化が発生した場合、ポピュリズムの台頭は避けられないものとなります。

 次に与党のリーダーシップ不足がある場合はポピュリズムが進行します。不安定感・不平等感といった不満に対して与党が市民の期待に応えられない場合、というよりもそのような不満感が醸成されることそのものが現権力者の能力不足だと捉えられます。

 「民主主義」「国家主権」「グローバリゼーション」の全てを同時に達成することは不可能だとする政治経済のトリレンマを代表として、物事は必ず二律背反・三律背反のような関係性を持つものであり、バラ色の解決法などは存在しません。だからこそ権力者は美辞麗句やスローガンを語るのではなく、何を取り何を犠牲にするかを明確にしてそれに対する国民の支持信託を受けなければいけません。それが不透明な場合、その部分を救済すると謳うポピュリストの伸張を招きます。

 最後に代替・受け皿としての野党が未成熟である場合にポピュリズムが暴走します。与党が駄目ならば代わりのところを選ぼうとなるのが当然の市民感情であり民主主義ですが、政権運用能力を持った真っ当な野党が無い場合は甘言を弄するポピュリストに票が流れることとなります。

 ポピュリズムの台頭と伸張、そして暴走についてはナチスドイツを事例としてもよいのですが、昨今の国際情勢からしてウクライナの流れを見ると一番分かりやすいでしょう。

 ウクライナでは政治的・軍事的な騒乱によって国民生活が低下していた中、与党はその解決方法を見出せませんでした。そんな中、対抗馬が弱かったこともあり、大統領選挙に出馬して圧倒的な勝利を収めたのが政治風刺ドラマの主演コメディアンであるゼレンスキーです。彼は元俳優であり、政治の素人です。ドラマのように政治を変えてほしいという国民の期待を受けて当選したポピュリストの体現たる彼が大統領として率いるウクライナが現状どうなっているかと言えば、まあ推して知るべしといったところでしょう。

 

日本の場合

 日本はポピュリズムが相対的に弱い国ではありますが、それは一億総中流という言葉がかつてあったように巨大な中間層が存在したためだと考えられます。

 しかし昨今は経済力の相対的低下と格差の拡大によって徐々に中間層の地位が低下してきています。現状は与党の支持率が高く急激な政治権力の変貌はないと思われるものの、右派では維新の会、左派ではれいわ新選組といったポピュリズム政党が勢力を増しています。

 その良し悪しは人それぞれの見解があるにせよ、このまま自民党のリーダーシップ低下が続き、最大野党である立憲民主党の復調が無ければ彼らポビュリズム政党がさらなる伸張をすることでしょう。

 

結語

 度々となりますが、私はポビュリズム自体を否定するつもりはありません。これは民主主義には必要なものです。恐れるべきはポビュリズムの過剰抑制と暴走です。まさしくポビュリズムは権力の腐敗、苛き政府を解消するひとつの薬であり、市民が用法用量を守って賢く用いなければいけません。賢く用いることが難しいからこそポピュリズムは批判されがちであることもまた事実ではありますが。

 とはいえ、ポピュリズム的思想に対して「民衆は愚かだ」と唱えるのは簡単ではあるのです。何故ならば個人の賢者に対して民衆は”必ず”愚かであることは自明ですので。ただ、ではどうするか、賢者による独裁へ進むべきなのか、新たな政治の仕組みを構築するのか、そういったものを無しに「民衆は愚かだ」とだけ唱えるのは建設的ではないしフェアでもないと思うわけで。さらに言えばそんな賢者たるエリートの傲慢こそがポピュリズムを暴走させる一因になります。

 独裁は私個人としては好みではありませんので、それよりもポピュリズムという獰猛で凶暴な民主主義の番犬にどう首輪を付けるか模索するほうがマシだと考えます。