西洋と東洋、罪と恥、といったように文化を分類するのは社会学的に一般的な行いです。知識や宗教、慣習や地域といった様々な切り口によって人間活動の差異が分析されています。
アメリカの社会学者であるブラッドレイとジェイソンは文化・価値観をHonor(名誉)、Dignity(品格)、Victimhood(被害者)の3つに分類しています。今回はこの分類を援用し、中でも名誉の文化について焦点を当てた話をします。
名誉の文化:男性的価値観
名誉の文化(culture of honor)はブラッドレイとジェイソンによる初出ではなく、元々アメリカ南部の伝統文化がそう呼ばれています。ただし名誉の文化は決してアメリカ南部だけに特徴的なものではなく、むしろ男性的価値観の強い原始的な男性社会において顕著に表出する文化であり、それは社会性を持つ父権的な野生動物の群れにも見られる特徴です。
男性的価値観とは表現されるものの、全ての男性の共通価値観であるわけでもなく、女性にもこの価値観を持っている人はいます。男性的というのは父権的なものを一般化するための言葉上での表現です。
名誉の文化では、社会的に価値があるとされるものや他者からの評判、前向きな社会的イメージを重要視します。男性的価値観の強い人が一般的に求めるものといえば、社会的な地位であったり、他者よりも大きい権力であったり、自身の評判を高める高級車であったりといったものです。これらは全て個人特有の固定的な財ではなく変動する社会的な財であり、他者から剥奪したり、逆に奪われたりする可能性があるものです。
よって名誉の文化を心中に持つ人は、他者から財を奪い他者に財が奪われないよう強靭な個体であることを望みます。財を多く奪える者こそが優れており、だからこそ奪い奪われえるものを”財”と考えるのです。これはまさしくマッチョの文化であり、マチズモはこのような理由で発生します。肉体的な優越はもちろんのこと知的優越を見せつけようとするのもマチズモの一環であり、マンスプレイニングなどはこの文脈で説明されます。
強靭な個体であることを良しとすることから、名誉の文化では自力救済が基本となります。面子を重視し、他者に舐められることを嫌い、助けを求めたり弱みや愛着の感情を見せることは望ましいものとされません。また敵対者に対して反撃をしないことや公権力に頼って自らの強靭さを示さないことは不名誉と考えます。これは西部劇やマフィアのような価値観であり、厳しい表現とはなりますが現代からすれば野蛮で暴力的な文化といえるでしょう。
名誉の文化の弱体化
かつての社会では男性優位が強かったことからHonorが主であり女性的価値観であるVictimhoodは抑えられてきました。しかし現代社会ではHonorは暴力的で野蛮だという価値観へ徐々に変わってきており、Honorは弱体化しています。今後もこの傾向は続くことでしょうし、それは男女平等にとって良い方向です。
社会的なバランスとしてはHonorとVictimhood双方の本能的な価値観を抑えて、尊厳と品位を主軸としたDignityが主となることが望ましいでしょう。現代社会が少し不安定なのはそのバランスを探っている段階だからと言えます。どこまでHonorを弱体化させるか、少し過剰になりつつあるVictimhoodの膨張をどう抑制するか、いかにDignityを拡大できるかを社会全体で模索しているような状況です。
もちろん社会が不安定であることはあまり良いことではありませんが、しかし安定していたからといって過去のHonor主軸に戻すようなことはあり得ないため、社会的価値観の変革期におけるやむを得ない混乱として許容するしかありません。
例えば「男性的・女性的であるほうが魅力的だ」と「ユニセクシャルなほうが魅力的だ」という価値観が両立しているのはこの変化の過渡期だからです。変革期ゆえ仕方がないのですが、若者からすれば「どっちがええねん!」と混乱するのも当然ですね。
ベクトルが2つあるのが難しい
今後の社会的価値観は大きく分類すれば2つのベクトルがあります。一つは完全に男性的・女性的価値観を抑制してユニセクシャルな価値観を絶対的なものとすること、もう一つは男性的・女性的価値観を残して互いに譲り合う価値観を持つことです。
もう少し単純化すれば「みんな同じ」と「みんな違う」というベクトルです。
これはどちらも時に正解であり、時に誤りです。だからこそ理想的な着地点は難しくなります。互いの違いを理解することが差別解消の一つの道ではありますが、宗教や部落差別のように違うからこそ差別を行うということも起こりえます。かといって皆同じだとすると今度はマイノリティの文化が絶えてしまうことでしょう。
「同じ」だというのはマクロで、「違う」というのはミクロであり、状況に応じて使い分けなければいけません。
その使い分けが分かっていない人達が「みんな同じであるべきだ」「みんな違っていいんだ」という棒を持って叩き合っているような状況は、あまり好ましいものではないでしょう。
もうフランクかつ大雑把に言ってしまえば、
「YO!お前と俺はここが違うな、でもOK、違ってもいいじゃん、だって同じ人間だろ、HAHAHA!」
というように、「同じ」と「違う」を同一文脈上で使えるようになればいいのですが。その違いはマクロとミクロでの切り取り方の差だけなのですから。
結語
今回は少し批判的に名誉の文化を取り上げましたが、だからといって名誉の文化を撲滅すべきだとはまったく考えません。これはこれで一つの価値観であり、問題はありますが有効な部分も多分に持っています。これを滅すれば世の中は全て良くなるかと言えばそうではない部分もあるのですから、必要に応じて使い分けるのが一番でしょう。
何よりも異なる価値観を認めないという方向性はそれこそマイノリティ差別に繋がりかねないので、控えたほうが良いかと考えています。
余談
ちなみに、インターネットスラングの「弱者男性」ってフェミニズムの文脈で使われますけど、よく考えると凄いマッチョでHonorな言葉ですよね、弱いことは駄目で強いほうが偉いなんて。フェミニズム的にはHonorは抑制すべき対象だと思うので、男性が自虐的に言うならばまだしもフェミニストはこの言葉を使うべきでない気がするのですが・・・まさに価値観の変革期における混沌という感じがします。
私はヘタレな男なので、男性的価値観のHonorを批判的に書くことはできますが、女性的価値観のVictimhoodを批判するのはとてもとても。でもこのような「女性には優しくあるべきだ」という価値観も立派なHonorであって・・・ああ、もうよく分からない!