忘れん坊の外部記憶域

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一般人による「正義の執行」は正当化できるのか?

 

 ネット上では時々、「これは許せない、正すべきだ」「加害者を批難しなければ」といった正義感に基づく言動を目にします。

 ときに晒しや炎上という形にまで発展するこうした"一般人による正義の執行"は、法治国家において正当化される余地があるのか、少し考えてみましょう。

 

法治国家

 悪は罰せられるべきであることは一般論ですし道徳的にも概ね正しいですが、個人が自らの正義感に基づいて他者を裁く行為は原則として不適切です。一般人による正義の執行、法に基づかない私的制裁は社会秩序を乱す暴力と同義であり、法治国家では許容されません。

 個人情報の暴露や特定個人の晒しといった名誉棄損とプライバシー侵害、炎上や吊るし上げのような同調圧力による攻撃は、たとえ正義の名のもとに行われたとしても、そして相手がどれだけ悪人だとしても、法的には不法行為であり無形の暴力です。

 悪を裁くのは法執行機関の仕事であり、本来的に一般人の仕事ではありません。

 

許容される条件

 とはいえ、言い分は理解できます。どのような動機であろうと悪は罰せられるべきだと考えること自体は先述したように一般的な考えで、かつ道徳的ではあります。

 また、法は万能ではありません。制度は常に後出しですし、手続きは煩雑で、時に不正義を見逃すことすらあります。また歴史を振り返れば法執行機関によらない市民の告発や行動が社会を変えてきたことも事実です。法の届かない領域に声を上げて世論を構築することは人々の正義感によって為せることでしょう。

 

 とはいえ、理由があれば暴力(正義の執行)は許容されると考えることは非常に危ういです。

 その考えをするならば、”理由”はどこに根差しているかを常に留意しなければなりません。少なくとも法治国家であれば個人の正義感や判断は一切理由にならず、法的にどうかだけが理由として正当です。そして法的に問題があれば法執行機関が正義を執行すればよく、基本的に一般人の出る幕はないと認識しておく必要があります。

 ”理由”を個人が恣意的に選択できる状態は国連の定義する差別に相当します。そして差別は憲法の定める自由・平等・人権に反するため、不適切です。

 

 ここで憲法を出しましたが、これが一つの分かりやすい条件となるでしょう。

 一般人による正義の執行、社会への問題提起としての市民運動などは、憲法の精神と整合が取れている限り、正義のための行動として一定の正当性を持ち得ます。

 非暴力的で、各種の法に触れず、他者の人権を抑圧せず、むしろ自由・平等・人権といった憲法の精神を拡張する方向であれば公共性や社会的共感を得られるため法の逸脱も多少なりとも許容されます。或いは法が個人の人権を侵害している場合、それに反対する運動はやはり支持を得られるでしょう。

 対して暴力的であったり、違法であったり、憲法の精神を侵害する方向であれば公共性や社会的共感を限定的にしか得られず、むしろ批判されます。

 

 しかし、いずれにしても法治国家においては法は感情や価値観の多様性を調整するための共通言語であり、社会的正当性や道徳的正義が法的正当性や制度的正義を上回ることはありません。

 そもそも「正義」の感覚は人によって異なりますし、誤認や偏見を含みます。それらの多様性を調整するシステムが法であり、法を超えて「正義」を執行しようとする行為は、たとえ善意であっても私刑や暴力に堕する危険性を常に孕んでいます。

 晒し、炎上、ネットリンチなどは訴えようとすれば「他者から批判される悪人」であっても法に問うことが可能であり、つまり他者を攻撃する人はどれだけ正義の名を語っていたとしても、法的に見て「他者から批判される悪人」と同様に悪です。

 

結言

 原則として法治国家においては憲法や法が上位です。

 一般人による正義の執行が正当化される道があるとすれば、法に則って法執行機関へ委ねるか、或いは憲法の価値に基づいた非暴力的で公共性のある行動のみとなります。

 これらは法治国家の枠内で「正義」を追求するための、唯一の正当な道筋です。

 それ以外の行為、例えば感情的な晒しや私的な攻撃、同調圧力による制裁などは、いかなる動機であっても不適切です。

 

 正義感は人間にとって自然な感情と言えます。

 しかし、その感情を社会へ発信する際には法の理解と制度的な正義が不可欠です。

 正義を語るならば、まずその「正しさ」がどこに根ざしているのかを自身へ問い直す必要があります。率直に言えば法治国家における正義とは法であり、「正義の執行」は法と憲法に依らなければなりません。