忘れん坊の外部記憶域

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「リスクはあるが必要なもの」に関しての考察

 

 2024年12月初頭に韓国の大統領が戒厳令を発令した事件の余波を受けて、日本でも戒厳令や緊急事態条項に関する議論がコロナ禍以降久しぶりに再燃しているようです。

 

法治国家及び自由主義国家

 このトピックを語る前に、日本における戒厳令や緊急事態条項に関する私個人の考えを先に述べておきましょう。

  • 法治国家としては何事も事前に法整備を行っておく必要がある。よって戒厳令や緊急事態条項に関する法整備は不可欠。極論、戒厳令や緊急事態条項を認めない方向であってもそれに関する法整備はあったほうがよい。法的根拠の無いまま政府や自衛隊が自儘に動くような事態のほうが問題。
  • 憲法改正による緊急事態条項の追記には疑問。災害対策基本法のように法律の範囲で充分機能するうえ、手続等に不備が見つかった場合に改正余地の大きい法律のほうが望ましいのではないか。現行憲法では「私権の制限となるが有効な手段」よりも「私権の制限が最小限となる手段」を優先しなければならないが、それでも私権の制限を最小化することが自由主義国家のコストであり少なくとも国民の合意が得られるまではその負担を甘受すべき。
  • 発動条件及び解除方法については熟議が必要。戒厳令は全会一致レベルの高いハードルを設けて、緊急事態については即応性に劣るものの内閣ではなく議会主導が望ましいと考える。解除方法については三権で牽制する仕組みが必要。今回の韓国の事件は好機であり、戒厳令や緊急事態条項のリスクを如何に最小化してどう取り扱うべきかの議論の下敷きにするのがよい。

 

 つまるところ、私は戒厳令や緊急事態条項を「リスクはあるが必要なもの」だと考えています。刃物や火、油圧や電気、車や薬などと同じ分類です。

 

リスクはあるが必要なもの

 「リスクはあるが必要なもの」は、その示す通りに取り扱いを誤ったり悪い使い方をすれば悪用が可能なもので、しかし無いと不便、或いは無いと問題になるものです。

 例えば車は人を傷つけることがありますが、この世から車を無くしてしまうととても困ります。同様に、世の中には様々な「リスクはあるが必要なもの」が存在しており、人々はそのリスクを最小化しつつも必要に迫られてリスクを許容することで使いこなしています。

 

 私は戒厳令や緊急事態条項が「リスクはあるが必要なもの」に該当すると考えています

 リスクは民主主義の死です。戒厳令や緊急事態条項は悪用されれば容易に独裁と統制へと変貌してしまう諸刃の剣であり、飲み過ぎれば直ちに死へと至る毒となります。リスクを小さくするためには発動条件を厳しくすればいいだけですが、条件を厳しくすればするほど即応性が損なわれて緊急事態へ対応することができなくなるため、リスクは必ず残ります。

 必要性は法治国家及び自由主義国家の維持です。緊急時に国家が法的根拠に基づかない行動をしては法治国家足り得ず、また法の制約に基づかない行動は国民の自由を阻害し得ます。国家が何をしていいか、そして何をしてはいけないかを事前に法制化しておくことは備えとして必要です。

 以上より、事前に法律を用意しておくことには必要性があり、しかしリスクは必然的にあるもの、すなわち「リスクはあるが必要なもの」だと考えます。

 

ゼロリスクではない

 私は戒厳令や緊急事態条項の必要性を高く見積もり、同時にリスクを許容可能な範囲まで縮小できると見積もっています。

 これが絶対的に正しい意見だとは思っておらず、他にもリスクを重視して必要性よりもリスクを高く見積もる人もいれば、必要性を過度に見積もってリスクを無視してしまう人もいるでしょう。リスクと必要性の天秤は個別であり、必要性を同じ基準で見積もれる人はおらず、どこまでのリスクを許容できるかも人それぞれです。

 よって戒厳令や緊急事態条項についてこれ以上の見解はありません。私はこう思いますと述べるだけであり、後はそれに同意する人がいて、同意しない人がいて、それぞれの意見を集約して最終的に皆の総意をまとめていけばいいと思っています。

 

 ただ、「戒厳令や緊急事態条項を定めなければリスクはゼロだ」とした意見を見かけたのでそれにだけは反対意見を述べておきます。

 ゼロリスクはこの世に存在しません

 たしかに戒厳令や緊急事態条項を定めなければ悪用されるリスクはゼロになります。しかしその場合は緊急事態に国家が国民の生命財産を守る行動を取れなくなるため、そのリスクが残ります。「緊急事態なんて生じるわけがない」と考えるのは個人の勝手ではありますが、それはただの認知バイアスです。

 物事のリスクをどう見積もり何を取捨選択するかは人それぞれですが、比較対象の片方がゼロリスクだと考えるのは明確に誤りですので注意が必要です。

 

結言

 リスク許容度については過去にも述べた通りセロトニントランスポーター遺伝子の型による違い、つまり個々人の先天的な特性だと思っていますので、その差異はやむを得ないものです。

 私たちは個々人で異なる判断基準を持っている中、それでもどのリスクをどこまで許容するかを政治によって調整する必要があります。