昨日の記事の続きです。
昨日は主にメディアについての言説でしたが、今回は大衆側について述べていきます。
思考と実行の差
私を含めて、ある種の人は情報を入手するとその情報に対して解釈や私見を付け加えたくなるものです。何事についても一家言あるタイプの人はどこにでもいるものでしょう。
それ自体は特に弊害があるものでもなく、むしろそういったタイプの人は情報収集に貪欲で、またinformation(情報)をknowledge(知識)に変換する技能に長けやすくなりますので決して否定できる類の傾向ではありません。
ただ、頭の中で考えることとそれを実行に移すことは常に峻別されるべきです。
前者は自由で、後者は時に制約を受けます。ミステリー作家が芸術的な犯罪手法を頭の中で考案することは問題ではなく、しかしその犯罪手法を実際に実行することは問題であるようにです。
それと同様に、得られた情報に対して意見を持つことと、その意見を世間やコミュニティ内で出力することは別枠として考えなければなりません。
要するに、情報を発信する場合は注意が必要です。
意見を持つことはまったく問題ありませんが、それが家庭や職場のコミュニティの不和を招くようであったり他者を傷つけるようであるならば自制が必要となりますし、程度によっては法律で制約を受けることとなります。子どもではないのですから、思ったことを全て外に出してしまうのではなく状況に応じて適切に発信することが必要です。
保留したっていい
意見を持つなということではなく、意見を出力するならば気を配る必要がある、そういった話です。
情報バラエティ番組のコメンテーターでもないのですから、私たちは旬な時事問題に飛びついて何かしらのコメントをする必要性はまったくありません。
そもそも専門家ではない情報バラエティ番組のコメンテーターが発するコメントにどの程度の価値があるかを考えればそれは自明でしょう。
報道機関であれば情報の速報性が求められるため、不正確であっても情報を発信することが許容されています。
対して報道機関でない人々の意見には速報性は求められていません。まだしも正確性のほうが重要であり、もっと厳しく言えばそのどちらも求められていません。
よって判断に足るだけの情報が出尽くしていない事象に対して、思うところを慌てて意見したり、不正確かもしれない情報を拡散する必要はまったくもってありません。「情報が不十分である」と判断を保留することも選択肢の一つであり、むしろ場合によってはデマ情報の拡散に助力してしまったり情報の錯綜を招いてしまったりすることを考えれば、判断を保留して意見を出力しないことが最適解となることすらあります。
判断や意見のスピードが求められるのは緊急事態の時だけであり、情報に対する個人の私見はそういった事象には該当しないのですから。
結言
つまるところ、テレビやSNSの見過ぎです。テレビのコメンテーターやSNSのインフルエンサーのようにニュースに対してすぐさまコメントをすることが一般的だと誤認してしまっているだけで、私見を発信せずに保留することも適切な選択肢です。
また、そもそも一般人に限らずコメンテーターやインフルエンサーの私見には基本的に価値がほぼ無いと考えたほうが無難です。権威主義的ではありますが、素人の発言よりも専門家の発言により重きを置くほうが合理的でしょう。