忘れん坊の外部記憶域

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私憤と公憤は容易に混同し得る:他者へ怒りを持つ際の注意点

 当ブログでは個人を特定できる形で批判する記事をほとんど作成していません。固有名詞等を出さず「世間で言われている」「どこかで聞いた」「誰かが言っていた」と透明にしています。出すとしてもせいぜいが政党名や団体名までであり、個人を限定しない形で記述することが基本です。

 何故そうしているか、今回はあえて一個人を代表例として、理屈と感情の両面でそれぞれ考えを述べていきます。

 

私憤が混同することを避けたい

 インターネット上では様々な怒りの声を見かけます。

 よく見かけるのは政治家のような公人に対しての怒りの声ですが、他にも経営者や専門家といった私人に対する怒りの声も多数あります。

 例えば、ここ最近よく見かけたのはTwitterに関連してのイーロン・マスク氏への怒りの声です。

 

 以前の記事でも述べましたが、怒りは私憤公憤に分類することができます。

 怒り、憤りには大別すると二種類、プライベートな怒りである私憤とパブリックな怒りである公憤があります。

 

 パブリックな怒りである公憤とは社会悪に対して感じる憤りであり、誰かの不祥事、やらかし、悪事など社会的に悪であるとされる事柄に対して、直接的には自身の利害に関わらない状況において生じる憤りです。

 

 私個人の趣味としては怒りを発露して人様に影響を与えることは好まないものの、他者の怒りを否定するわけでもありません。

 特に公憤は社会正義を実現するためには必要不可欠なものであり、当事者ではない無関係な多数の人の声が無ければ世の中に悪がのさばることになってしまいます。

 よって公憤の存在自体を否定する理屈は持ち合わせていません。

 

 しかしながら、少し話をややこしくしてしまうのが私憤と公憤の峻別です。

 その怒りの原因がどこにあるかを認識するのは存外に難しく、人はつい自らの私的な怒りに対して公的な理由付けのラベルを貼り付けてしまいがちなものです。私の個人的な思想信条はリベラル・アイロニスト寄りであり、公憤が真に公的であるかは常々議論の余地が残ると思っています。

 

 上記引用にある通り公憤は不可欠で必要なものだと考えていますが、私憤と公憤を峻別するのは極めて難しいため、その取り扱いには注意が必要です。

 先に事例として挙げたイーロン・マスク氏への怒りの声は典型例と言えます。

「使い勝手が悪くなって俺が気に入らない」と怒りの声をあげるのならまだしも、人によっては「使い勝手が悪くなって皆が迷惑している」と世間の総意であるかのように叩いています。

 前者は主語が己自身であるため私憤に該当し、後者は主語が皆であるため公憤に該当する、とは言えません。一企業の一サービスが内容を変更することは法に触れるような不法行為や社会悪とは言えないからです。あくまで一人のステークホルダーとして私憤に滾るのであれば問題ありませんが、イーロン・マスク氏を悪魔化して皆で徒党を組んで石を投げるような公憤が許容されることではないはずです。

 公憤は社会正義を担っており、それだけに暴走するリスクがあることから注意して取り扱わなければなりません。

 企業がサービスを変更した、ただそれだけの話です

 これに対して「皆が迷惑している」とするのは私憤と公憤を混同してしまっている状態に他なりません。このように、私憤と公憤は容易に混同が生じ得ます。

 

知らない人に対して怒ることが苦手

 以上は理屈面での意見です。

 次に個人的な感情面での意見として、私は知らない人に対して怒ることが苦手です

 例えば、私も一応TwitterをROM専で眺めるために使ってはいますので、最近使い勝手が悪くなったとは思っていますし色々とTwitterには問題が生じているとも思っています。

 ただ、イーロン・マスク氏がこれら問題の根本なのかどうか私は知らないため、氏に対して特に悪感情を抱いていません。

 もしかしたらもっと上位の金主が居てその人の指示なのかもしれませんし、元々内部に問題があってCEO交代で顕在化しただけかもしれません。そしてもちろん単純に、イーロン・マスク氏が本当に諸悪の根源なのかもしれません。これらを確定する情報を私は持っていませんし、本人に会って話を聞いたわけでもありませんので、好悪の判断は保留です。

 もちろん経営責任者なのだから責を負うべきだとして批判対象にする理屈もあるでしょうが、それはビジネスの範囲での責任であって好悪の判断とは別物だと考えます。

 

 これは個人の感情と性格の話です。

 私は元々他者の言説にそこまで重きを置いていません

 例えば誰かが「あの人は悪い人だ」と言っているのを耳にしても、それを判断基準にはしません。人の意見には必ず認知バイアスが含まれている以上100%信頼する根拠にはなり得ないのですから、「あの人が悪い人かどうか」はその人に会って話してそれから判断します。

 噂は噂に過ぎず、ある人の意見はある人の意見に過ぎません。それに従って自身の好悪を決める必要はないでしょう。

 

結言

 情報化社会の功として物理的な距離の制約を受けずに人々が交流できることは良いことだと思います。

 ただその反面、噂の重みが過大になっていると感じます。会って話したこともない遠くの知らない人を「皆があいつは悪い奴だと言っている」という噂だけを持って怒り狂っては、事実誤認によって悪人ではない人を攻撃してしまいかねません。

 

 公憤は前述したように「社会的に悪であるとされる事柄に対して、直接的には自身の利害に関わらない状況において生じる憤り」です。よって必ず「他者から聞いた話で怒りを持つ」構造を持っています。

 だからこそ、この情報化社会では公憤の取り扱いに極めて注意が必要だと、そう考えます。なにせ噂の量が段違いに多くなっているのですから。