忘れん坊の外部記憶域

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社会的なリスク許容度は誰が決めているのか

 アメリカへ短期出張をする際に念のためマスクを多く持っていったのですが、ほとんど使いませんでした。現在、アメリカでマスクをしている人は少数派で、大人数が集まるところでもマスクをしている人はほとんどいません。

 対して日本へ帰国後はずっとマスクをしています。

 この差がなぜ生じるのか、リスク許容をテーマとして考察していきます。

 

 個々人がマスクを付けるかどうかの是非については語りません。それは個々人のリスク許容度合いの話であり、それぞれの価値観と所属する集団の基準を照らし合わせて判断すればよいと思います。

 今回はもっと広い範囲、社会的なリスク許容の発生に関する考察です。

 

安心と安全の違い

 以前にも記事にしましたが、「安心」と「安全」は異なる概念です。

 安心と似た概念に安全があります。どちらも静穏で安寧である状態を表す言葉ではありますが、詳解すると少しばかり違う意味合いを持っています。

 安全とは定量的な数値で示すことができるもので、客観的であり、規制や規則によって管理することが可能なものです。

 対して安心とは定性的で数値化できず、主観的であり、規制や規則によって管理することが不可能なものです。

 そして物事のリスクが許容できるかどうかは「安心」に類する判断基準です。

 感染症を例とすれば、感染がどの程度広がっているか、感染するとどの程度重症になるかは数値で表すことができるのに対して、その数値に安心できるか、そのリスクが許容できるかどうかは主観的な閾値に依存します。

 

社会集団のリスク許容はどう決まるのか

 個人の主観的な安心の基準と同様、社会集団にも安心の基準があります。同調圧力の形で現れるそれは、明文化されていないものの明確に存在しています。

 コロナ禍でのマスクが良い例で、日本ではマスクをすることへ同調圧力が存在するのに対して、欧米ではマスクをしないことへの同調圧力が存在します。先日アメリカへ出張した際には現地で「マスクなんてすべきではない、外せ」という直接的な圧力を受けました。

 

 この社会的なリスク許容と同調圧力の発生源は個々人の判断が単純に積み重なったものではないと考えます。

 何故ならば個々人がリスクを判断する際に参考情報とするのが社会集団のリスク許容度合いだからです。社会的な基準は個々人の判断よりも前に発生しています。

 マスクが実に分かりやすい例で、誰かがマスクを付けるかどうかを判断する際には周囲の社会集団がどうしているかを見てから決めることが多いでしょう。つまり個人の判断よりも社会の判断が先に為されているわけです。

 

 社会的なリスク許容度合いが定まる理由は極めて複合的でしょう。

 まず文化的な影響は大きいものです。

 コロナ禍におけるアメリカのマスクを例にすると、ベースの部分でアメリカではマスクを付ける文化がありません。口の形で感情を表現するコミュニケーション文化があることから、マスクを付けることは感情を隠す不審者とされます。

 しかしアメリカでも一時期はマスクが推奨されていたことを考えると、文化的な影響は必ずしも支配的なものではありません。

 

 当局の規制も大きな影響力を持つでしょう。

 政府や省庁の規制によって優遇又は制約が定められれば、人々はそれに従うことになります。

 とはいえこれもやはり絶対的なものではありません。誰もが政府へ素直に従うわけではないのですから。

 

 データに基づかない個人的な感想に過ぎませんが、私はマスメディアの影響力が一番大きいと考えています。社会の空気や同調圧力の方向を定めているのはマスメディアだと。

 インターネットが発達したことによりマスメディアの影響力低下が叫ばれて久しい昨今ではありますが、現代においても広範のマス(集団)に情報発信ができる組織はマスメディアが最大であることに変わりありません。インターネットは相手からの接触を待つプル型が基本であり、マスメディアのようなプッシュ型に特化したマス(集団)への情報発信ツールではないためです。

 よってマスメディアの報道量が文化的な制約の閾値を超えればアメリカのようにマスクを付けるようになるのでしょう。

 極端な話、マスクが元々許容されている文化的土壌がある日本でも、「マスクは付けるべきではない」と連日メディアが報道すればマスクを付けない人は増えると思われます。

 これはマスクに限らず他のリスク事例でも同様だと考えます。例えば『原子力発電所の利点』をマスメディアが連日報道すれば、原子力発電所のリスクを許容する社会的な空気が生まれることでしょう。

 

 以上より、社会的なリスク許容度は誰が決めているのかと言えば、それは今なおマスメディアだと私は考えています。

 

結言

 何もマスメディアの責任問題を語りたいわけではなく、どの影響がどう大きいのかを考えたいだけです。もちろん第四の権力であるメディアにはその権力の大きさと影響力を充分に自覚してほしいとは考えていますが。