忘れん坊の外部記憶域

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入口を統制するのではなく、出口を観察する:社会主義と環境主義の親和性と誤解

 「環境主義は社会主義の一つだ」と述べる言説が存在するほど、環境主義と社会主義は同時に語られることが多い概念です。

 個人的にはさすがに極論だと思っていますが、社会主義と環境主義の親和性は確かに高くあります。それらはどちらもアンチ資本主義の形で述べられることが多いからです。

 社会主義は過剰な資本主義に対するアンチテーゼであり、自由市場に依存するのではなく計画的な生産を求める思想です。環境主義は人間活動による環境破壊を防止するため持続可能で計画的な社会を求める思想です。

 自由放任か統制管理かの二項対立構造において、統制側の思想である社会主義と環境主義の親和性が高いのは当然の帰結だと考えます。

 

 ただ、社会主義と環境主義は必ずしも重なるものではなく、その親和性には致命的な錯誤が存在するように感じています。私は資本主義者かつ環境主義者であり、それがどういった考え方かを開示してみたいと思います。

 

資本主義が環境を破壊する、の誤解

 「資本主義によって次から次へと資源が浪費されていく、資本主義は環境を破壊する悪しき思想である」といった言説があります。これは条件によっては当てはまりますが、必ずしも正鵠を射ているわけではありません。

 通常、資本主義経済では資源の浪費を最小化するよう圧が働きます。10の資源を使って100の利益を得るよりも1の資源を使って100の利益を得たほうが得であり、経済人は経済合理性に従って少ない投入資源で利益を出そうとするからです。資源の浪費や余分な生産は経済人からすれば極めて非合理的な選択だと言えます。

 もちろんジェヴォンズのパラドックスが示すように経済人は利益の最大化を目指して100の資源を使おうとします。しかし自由市場では人々のニーズを満たす範囲以上に生産すれば値崩れを起こして利益を得られなくなることから、必要以上に拡大した生産は自然と絞られるような圧が働きます。

※ジェヴォンズのパラドックス

技術の進歩により資源利用の効率が向上した場合、効率化で活用範囲と消費量が増すことで、資源の消費量は減らずにむしろ増加してしまうとするパラドックス

 

 反面、社会主義体制下では市場ではなく所定の計画に基づいて生産が行われるため、投入資源量を抑制する圧も、市場価格に応じて生産を抑制する圧も働きません。

 市場価格が存在しないため投入資源量の最小化は行われず、計画数を達成することが重視されるために資源を無駄に浪費しながら生産が行われます。そして市場の均衡が働かず計画数と現実の必要量が乖離する以上、生産量が不足して人々が困窮するか、過剰に生産して資源を浪費するかの二択になります。

 

 つまり、現代社会では資本主義のほうが市場規模が大きいことから資源浪費が多いように見えていますが、同規模の社会集団であれば社会主義よりも資本主義のほうが環境に優しくなります

 日本やアメリカが資本主義を捨てて社会主義に移行した場合、今よりもさらに環境破壊は進むことでしょう。よって私は「資本主義が環境を破壊する」との言説は全面的には首肯しかねます。

 

資本主義の課題と解決策

 もちろん社会主義に問題があるからといって資本主義がより良いことの証明にはなりません。資本主義にだって問題は存在しています。

 資本主義・自由市場の課題はその放漫さです。前述したように自由市場では必要以上の生産を抑制するような圧が働きますが、市場が反応するまでには時間差があります。社会主義の計画見直し期間に比べればマシな時間差ではありますが、その時間差によって生じる過剰生産は資源の浪費と言えるでしょう。

 そのような資本主義の放漫さを制御すべく採用されているのが修正資本主義です。修正資本主義とは社会主義のような完全な統制を目指さず、しかし純粋な資本主義のような自由に任せることもせず、必要なところに必要な規制や福祉を施すものです。言うなれば資本主義と社会主義の良いとこ取りを目指した主義です。

 現代の資本主義国家は程度の差こそあれほぼ全てが修正資本主義を採用しています。格差が広がるならば分配を強化し、失業が問題になるならば仕事をマッチングし、浪費が問題になるならば抑制を行います。ジェヴォンズのパラドックスは法規制や税制で回避できることが分かっており、修正資本主義はまさしくそれを行っています。

 完全無欠の制度ではなく、むしろ常に手直しが必要な永遠の未完成制度ではありますが、しかし問題解決力は高いものです。よって環境主義に資するのは社会主義よりも修正資本主義だと私は考えます。

 

結言

 計画的にやれば上手くいく、と考えるのは人の知性への過信ではなかろうか。

 近現代史を学んでいるとそんな気持ちになります。

 農業生産一つ取っても「年間にどれだけの品種で何粒の種を植えればいいか」を最初に机上で計画して実行するのは不可能であることは数多くの国家が証明してきた現実ではないでしょうか。いずれシミュレート技術が発達し将来の気候や災害の発生まで予測できるようになれば可能かもしれませんが、今しばらくはまだ机上の空論に過ぎないと感じます。

 今の人類にできることは完全無欠な計画を立てることではなく、必要に応じて都度修正して調整していくこと、すなわち入口を統制するのではなく出口を観察することではないかと愚考します。

 

 

余談

 資本主義は膨張拡大するので資源を浪費する、とした反対言説も考えましたが、ソ連の五カ年計画や中国の大躍進政策を見るに社会主義体制ならば膨張拡大しないわけでもないと思う次第です。

 その反面、「脱炭素は社会主義だ!」と気炎を揚げる方もいらっしゃいますが、冒頭に述べたようにそれは極論だと思います。脱炭素の方針に基づき税や法規制でコントロールを狙うのは修正資本主義からすれば通常の手法です。ピグー税等で市場の失敗を是正することまで否定するのは極端かと。