忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

小さな共同体の限界と都市化の利益

われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心にたいしてである。

アダム・スミス「国富論」

 

小さな共同体の限界

 村社会のように小さな共同体であれば資本の規模が小さく合議によって意思決定が行いやすいことから民主的な組織を形成可能です。

 

 では何故世界中の人々は民主的な村社会を捨てて都市化を進めていったか。

 

 これもまた単純な理由で、小さな共同体は不安定だからです。人類の歴史を要約すれば、生産性を高めて余裕を生み出し生存を安定させることに尽きます。人は生物として最大の目的である生存を安定させるため、小さな共同体から大きな集団へと組織を変遷していきました。

 

 小さな共同体は生産規模が小さく効率を高められないことから、資源を蓄えることが必然的に困難です。

 資源の蓄え、すなわち貯蓄の概念は農耕の発展によって誕生したものです。とはいえ当時の農耕は地産地消の自給自足を満たせるに過ぎず、貯蓄用の資源を積極的に生産できる類のものではなくあくまで余った資源の保管に過ぎないことから、何年もの不作に耐えるほどの貯蓄を生産するような概念ではありませんでした。

 共同体が長期的な目線で貯蓄のための資源を生産できるようになったのは工場制手工業が主流になって以降だと言えます。作業を分割しそれぞれに得意な人を割り当てる方法が発見されたことで生産の効率が高まり、人々は余剰資源を生み出す余裕を手に入れました。

 

 資源の余裕が無ければ好きなこともできず、新しい発見もなく、日々の生活で手一杯になってしまいます。家も、服も、食事も、かつては全て個人で生産することが可能でしたが、それは悪い言い方をすれば「それが出来ない人間は生きられない、過酷で余裕のない世界」であるとも言えるわけです。

 

略奪

 資源が不足した際、十分な貯蓄が困難な小さな共同体は外部に依存する必要があります。すなわち、略奪です。近代以前の他殺率が現代に比べて遥かに高いのは資源が不足した際に外部である別の共同体からの略奪が頻繁に発生したことが大きな原因だと言えます。

 略奪には当然ながらリスクが付き物です。反撃によって損失を被る危険がありますし、略奪によって十分な資源を獲得できる保証もなく、略奪可能な対象が常に近くにあるとも限りません。

 都市化は略奪のリスクを避け得る最適な方法です。資本の集中による高い生産力は自然と他の共同体からの防衛力を高めます。余剰の生産備蓄が行われていれば困窮時に不足した仲間へ提供することが可能です。何よりも他所へ略奪に行かなくていいのは最大のリスク回避です。

 人類は小さな共同体を離れて都市化をすることにより、生産の効率を高めて余暇の獲得と生存の安全を手に入れました。

 

生産性向上の利益

 都市化と工場制手工業によって生産性が向上することの利得は他にもあります。

 

 最大の利得は選択の自由です。

 村社会や社会主義的体制下では生産効率に限界があるため、居住や職業には自由がありません。これらの自由は余剰の貯蓄があってこそです。

 資本主義的競争社会の極めて特徴的な利得は、その競争社会に乗るも降りるも自由だという点にあります。私たちの社会はある程度の範囲であれば無理に働かなくても人々が生きていけるだけの生産力がすでにあり、それは生産性の向上がもたらした恩恵です。

 

 また新しい発見を活用できるのも余剰の産み出した利得です。

 意外なことに、小さな共同体や全体主義的社会において新しい発見はあまり歓迎されるものではありません。それはプラスにせよマイナスにせよ予定していた生産計画を崩壊させるものだからです。さらに言えば指導的立場にいる人の権威を失墜させる危険な行為とも認定されかねません。場合によっては新しい発見自体を権力者から略奪されることもあり、新しい発見を安易に発表できるような環境ではありませんでした。現代でも地方の村社会で「新しい方法」の導入が拒絶されがちであるように、残念ながらこれは村社会的共同体の普遍的な現象だと言えます。

 余剰のある自由社会や都市では新しい発見を民衆が自身の権利として行使できることから、新しい発見の活用が自由に進みます。

 

 都市化は知らない人と協力できる点も大きな利得です。

 冒頭で引用したように、都市化による分業、資本主義的取引は顔も知らない他者と協業できる点が優れています。善意や博愛心や仲間意識の無い希薄な関係性であっても互いに利益を与え合うことは小さな共同体では難しいものです。

 

 都市化が進めば少数派の意見を受け入れるべきだとする今日的な人権が育つことも挙げられます。

 村社会における民主主義は多数派が絶対的な権利を持ちます。非差別民や不可触民といった少数派の迫害は歴史的な事例が無数にあることからも実証的な事実です。余剰の無い小さな共同体は共同体の維持それ自体が主目的であり、必然的に全体主義的特徴を持たざるを得ず、構成員の権利は考慮されません。

 都市化は資源の余剰と個々人の資本獲得機会、すなわち構成員の発言力向上をもたらしました。現在でも多数派と少数派の権威勾配が完全に無くなったとは言えませんが、少なくとも古代中世の閉鎖的村社会に比べれば都市における少数派の権利は改善の傾向を示しています。

 

結言

 もちろん都市化は素晴らしいことばかりではありません

 資本の集中は発言力の集中を招き独裁や専制を生み出しましたし、余剰の過剰生産は資源の浪費と環境の破壊を引き起こします。余剰資源に託けて他所の共同体へ無用な略奪を仕掛ける場合すらあります。薬と同様、度が過ぎれば都市化は毒となることは論を俟ちません

 しかし、では飲まなければいいかと言えば、そうとも言えません。都市化や資本主義を安易に投げ捨てればかつてのような不安定で不自由な社会や略奪の横行する社会へ逆戻りするだけです。それはソビエトのソフホーズによる新農奴制や中国の大躍進政策による飢餓など、技術が発展した近現代でも発生することが証明されています。それが受容できないからこそ人々は都市化を選択してきたのですから、まったく飲まないという選択肢は基本的にありません。

 よって私たちは、薬と同様、都市化や資本主義を適量となるように飲む選択が必要だと考えます。