忘れん坊の外部記憶域

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AIが発達すれば人間が仕事をしなくていい未来は訪れるか

 AIでは訪れないと思う人間の戯言。

 

働かなければ食べていけない世界

 この世にはブルシット・ジョブ、すなわち『完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態』があることは事実です。やらなくてもいい仕事、無くなってもいい仕事、それどころか存在するだけで害悪となる仕事は存在していますし、それを無くして資源の浪費を防ぐ、それは善なる方向として多くの支持を得られるかと思います。

 ブルシット・ジョブが登場する論理はシンプルで、技術の発展が生み出した余剰が人々の余暇の購入ではなく産業と消費者の成長に再投資されてきたためだとされています。生み出された余剰を人々の余暇の購入に投資すれば人は今以上に働かなくてもいいのに、そうなっていないために無理やりにでも仕事を作って働かなければならず、だからこそ不必要な仕事であるブルシット・ジョブが生み出されている。

 大雑把にまとめればそんな理屈です。

 

 「では余剰をブルシット・ジョブに費やさず余暇へ投資できるような仕組みにすれば人間は仕事をしなくてもいい未来が来るのではないか」と考えたいところですが、ここで考えるべきは何故そうなっているかです。

 これが資本主義のシステムや人々の価値観に起因する人為的な理由であればそれを取り除けばいいでしょう。

 しかし残念ながらと言うべきか、これは人為的なものではなく、やむを得ず行われる自然発生的なものだと考えます。誰かの悪意やシステムの欠陥が人々の余暇への投資を阻止しているのではなく、人々は自然の原則に従って止むを得ず『働かないと食べていけない』のではないでしょうか。

 そう考える理由について説明していきます。

 

制約条件は人為か、自然か

 何故人々が余暇の購入に投資できないか、それは人為的な悪意やシステムが原因ではなく、単純に資源の利用可能性が有限だからだと考えています。

 資源の一例として食料や水で考えてみましょう。

 現代社会はかつてと比べて遥かに裕福となりました。WHOの統計では肥満人口が飢餓人口を上回っており、食料は世界から飢餓を撲滅するのに十分なだけ生産されています

 では何故今なお飢餓に陥る人がいるかと言えば、それは高所得の国々が悪意と無知によって食料を独占しているせい、ではなく、それよりも大きな原因として資源の偏在性があるためでしょう。

 食料資源の絶対数は人類に必要な分だけ存在していますが、肥沃な地域と砂漠地域で購入できる生鮮食品や水の金額には差異ができるように、分配には時間的・距離的・技術的な制約があります。数字上の絶対数は実のところ意味が無く、そこでどれだけの資源が入手・分配できるかのほうが個々人には重要です。そして世界中の全ての場所で同程度の交換価値を持つ食料資源を行き渡らせる方法は今の世界には存在しません。

 これは食料や水に限りません。有用な資源は否応なしに偏在しており、その均質化が為されていないのは人為ではなく物理的な制約が主原因だと考えます。そして全ての資源の利用可能性を均質化できるほどまだ人類の文明は発展していないでしょう。

 

 時々この資源の偏在と独占の原因を資本主義に求める言説を見かけますが、それは極端だと考えます。もちろん要因としてゼロではないでしょうし、投機や独占を減らせば今よりもさらにより良い分配が為されることでしょう。

 しかし余暇を購入していては飯が食えなくなるのは資本主義が根本原因ではなく、未だ入手可能な資源が奪い合わなければ足りないからです。たとえ資本主義だとしても『資源に余剰があれば』人々は余暇を購入することが可能です。それは昨今のFIRE(経済的自立/早期リタイア)が証明しているとも言えます。

 

 また、資源の独占を人為的な原因のみだと認識して、資源を公共財として扱うコミューンやアソシエーションを構築すればよいとする脱成長コミュニズムがありますが、それはただの古代文明への懐古ではないかと思えます。地産地消の小さなコミュニティで分散して暮らすのであればかつての村社会そのものです。

 しかし牧歌的に思えるその時代は『村同士での資源の奪い合い』が頻発していたことを無視しているように感じます。奪い合いの根本原因は資本主義的な資源の独占ではなく、ただ利用可能資源の不足です。資源が個人の財産であろうが公共財であろうが関係ありません。

 それを避けるために生まれたのが争いではなく融通し合うための共同体、すなわち都市や郡、州や国家です。そうやってコミュニティの規模が大きくなった場合、資源を公共財として民主的に管理することは不可能になります。なにせ規模が大きくなればなるほど公共財の管理者には巨大な権力が発生するのですから、生まれるのは独裁政治や専制政治です。脱成長コミュニズムでは資本主義と違い個人が財産を持てない以上、公共財の管理者たちを打倒する資源を保有することすらできません。

 もちろん民主的なコミュニティと独裁的なコミュニティのどちらを好むかは人それぞれだとは思いますが、私は選ぶのであれば民主的なコミュニティにしたいものです。

 

 とても単純な話として、現代の飢餓は『誰かが独占しているから人々が飢えるようになった』のではありません。統計的に見て現代は『元々大勢の人が飢えていた過酷な世界から徐々に飢餓が撲滅されつつある』途上であって、人々の生活は上流だろうが下流だろうが確実に向上しつつあります。

 その向上速度に人それぞれ差があるのは事実ですが、その差を生んでいるのは人為的な搾取が主ではなく、利用可能な資源量の差異に過ぎません。

 「日本人は水資源を豊富に使っている、他の国の人々から資源の利用可能性を搾取しているのだ」と言われても困るように、「欧州は日本に比べて自然災害が少ない、日本の資源の利用可能性を搾取しているのだ」と言っても仕方がないように、これは自然の制約に過ぎない話です。

 

AIは効率を上げるが、不足は解消できない

 表題の問題提起に話を進めます。

 AIの発達は資源分配の効率を高め、人々の仕事を代替し、資源の利用可能性を高めることに資すると考えます。よって人々が仕事をしなくていい世界へ一歩以上近づくことは間違いないでしょう。

 しかし私のように利用可能な資源の偏在を人為ではなく自然原因だと考える場合、利用可能な資源の不足を完全に解消することまでAIに期待するのは少し無理筋ではないかと思います。さすがにAIは時間を無視することはできませんし距離を無くすことだってできません。

 それこそ時間的・距離的制約を無視できる「どこでもドア」的技術が登場して交換価値の均質化が為されるか、もしくは新たなエネルギー源の利活用による利用可能資源の爆発的飽和でもなければ、残念ながら人が仕事をしなくていい未来は訪れない、そう考えます。