先日、著名人が差別反対の言説を展開したことに対する反論を見かけました。
曰く、「金持ちで、都会に住んでいる、何の苦労もしていない、差別されたことのない人が語る差別反対は薄っぺらい」とのこと。
発言内容ではなく発言者の属性によって評価している時点でこの反論こそが直球の差別ではあるのですが、ある意味で差別解消の難しさを象徴するような意見でもあります。
指摘には意味が無い
この反論に対して「それこそが差別だ、止めるべきだ」と述べるのは簡単です。
しかし意味も効果も無いでしょう。
この反論は表層的には特権的階層に居る人々を無知と批判しているのではなく、実際は構造的な部分に対する反発です。特権的階層の人々がいること自体が不平等であり差別的である、そうした見解だと言えます。
よってこの反論に対して差別的だと一刀両断に批判しても意味はなく、下手をすれば特権的階層とそうではない人々との分断をただ深めるだけになりかねません。アメリカのような社会分断を避けるためにはもっと別の考え方が必要です。
構造を破壊することの不可能
かつてはそういった不平等な社会構造自体を破壊することが平等への道と考えられました。
しかしそういった階層廃止の試みは多くの失敗を経験してきており、結局は新たな階層を作り出すだけとなってきたことは歴史が証明しています。人間社会において能力・役割・資源など様々な違いが階層を生むことは、ある意味で自然な現象とすら言えるでしょう。ありとあらゆる属性や資源を同質化することは不可能です。
極端な話、全ての人に同じだけの富を与えて、全ての人がこなせる簡単な仕事だけを与えて、全ての人の容姿を整形して統一し、全ての人の人格を洗脳したとしても、住む場所までは完全に同座標とすることはできず、それだけですら格差や階層は生まれます。
つまるところ、階層自体を拒絶することは現実的ではありません。なにをどれだけどうしようとも特権的階層は生まれます。
問題とすべきは、それが固定化されて排他的に機能しているかどうかです。
階層自体を問題視するのではなく、クローズドな構造として差別を再生産していることを倫理的に問うべきだと考えます。
差別の緩和
逆に言えば、階層が固定化されておらず協調的に機能していれば階層それ自体はあっても致命的な問題とはなりません。
例えば流動性が高く、階層の入れ替わりが可能な環境であれば人々は希望や公平性を感じることができるでしょう。実際、封建的社会であっても時代が進むにつれて貴族・騎士・武士階級などへの門戸が開かれていったように、閉塞感が長引くと社会は安定のために流動性を高めるものです。それができない社会は内乱によって崩壊します。
また、階層上位者に対する社会的責任を明確にすることが効果的です。その階層へ立つからには慈善活動や社会貢献を果たす必要がある、そういった連帯と協調に関するノブレス・オブリージュを道義的ではなく制度的に明確化すれば、流動性の高い社会において階層を上がることに対する心構えや、階層を上がらないことに対する理由付けも可能でしょう。
流動性が高く協調的な階層社会は、少なくとも非現実的な階級打破を進めるよりは差別に対して対処的で安定した社会になるかと考えます。
もちろん差別構造の温存と言えばそうかもしれません。真の平等とも言い難いでしょう。
しかし前述したように完全な平等は現時点の文化・技術的資本では実現不可能であり、そうであれば根治を目指して新たな差別構造を再生産するよりも差別を減衰する方向を取ることは意味があるかと思います。
結言
このような考え方はある意味で非常に工学的です。
過去にもEV車の件でトヨタを事例に似たような話をしたことがあります。
確かに全てのガソリン車をすぐにでもBEV化できるのであれば、それがCO2排出抑制には最も効率的です。
しかし少なくとも自動車の分野において今後数十年に渡り電池用鉱物や充電インフラが不足することは目に見えており、そもそも全ての車をBEV化するために必要充分な資源が地球上に存在しない可能性すらあります。
そうであれば、徐々にBEV化を進めていくに当たって最もCO2排出量が少なく済むように利用可能資源を配分していく方策を練ることは極めて合理的な考え方だと言えるでしょう。
社会問題についても同様に、遥か遠くにある理想を目指して一足飛びでやろうとして崖下へ落ちるよりは、地に足を付けて順に問題を解決していく考え方も必要です。