物事には大抵の場合で両面性がある。
二面では限界があるので、面を増やすのはどうだろう。
抑圧を叫ぶ側の抑圧性
昨今はアメリカを筆頭に、まあ色々と自由が抑圧される方向へ進んでいるとは思います。
ただ、それを安易に批判していればいいかと言えば、なんとも言い難いものです。
逆説的になりますが、今まで自由だと思っていたことは人によっては不自由であった、自由を抑圧されつつあると思っている人たちの反対側には自由を徐々に得ていると感じている人たちが存在する、そういった物ごとの見方です。
それこそ、愛国心的な表現の自由、政治的正しさに抑圧されてきた人たちの言論の自由、報道されてこなかった環境主義への反発、性的少数者や人種に関する言説の否定などなど、今まで自由を謳歌していなかった言説がバックラッシュ的に復権を果たしつつあるために過去の自由が抑圧される側になっているのは、アメリカを筆頭に世界的な潮流になりつつあると言えるでしょう。
もちろんそれらを一概に許容することが適切だとも言えません。
特に現在自由が抑圧されつつあると思っている人たちからすれば、正しい言説ではないと思ったからこそ今まで異なる言説を抑圧してきたわけで、それらに自由を与えることは秩序の崩壊を招きかねないと危機感を持つことでしょう。
さらに言えば、抑圧されてきた言説の中にはそれこそ陰謀論や誤情報も多数含まれていますので、ただただ単純に開放を是とすることは公共の福祉にも反します。
自由を叫ぶ側が、実は他者の自由を抑圧していることは見落とされがちですが意識する必要のある構図であり、しかしだからといって全ての抑圧を排除して無秩序化することも現実的ではありません。
社会構造の三層化
抑圧は宜しくない。
しかし無秩序も適切ではない。
そうなれば残された道は、自由を認めつつも秩序を保つ努力だけです。
言論は抑圧とならないように自由な発信を許し、しかし発信された言説に対してはファクトチェックを行い、後は人々の教育を支援しつつも受け手の判断力を信じる。その他にこの両立は現実的ではないでしょう。
とはいえこれらの対立の根底にあるのは民衆の知的能力を信じるか信じないかで、これは相当に意見が割れます。前者は度が過ぎれば無秩序なポピュリズムへと陥りますし、後者はエリート主義の抑圧的な選民思想へ迷い込む道です。そしてそのどちらも極端に行き着いてしまった人は多数見受けられます。
この二項対立は、そもそも二項対立だから問題になります。
両面を同時に見ることができないならば、二面ではなく三面にしてしまえばもう少し判断力を高めることができるでしょう。
例えばイギリスの二院制のように、下院はポピュリズムの代表として民意や感情を象徴し、上院はエリートの代表として合理や理性を司ることは一つの手ですが、どちらかが肥大化した場合は止められなくなります。
そこで三権分立的に第三の立場を追加すれば、それぞれを監視し合って知性と反知性の緊張をほぐすことが可能になる、かもしれません。
追加する視点としては、乱数的な無作為抽出型が無難でしょうか。
倫理や人権、持続性や正義、地域や世代など、色々と切り取り可能な側面はあるかと思いますが、それらの側面をひっくるめて無作為に抽出した視点によって分析することで、民意と合理の間にある"偶然"を司ることができると考えます。
無作為抽出の立場を作れば、数を代表するポピュリズムと理を代表するエリーティズムのバランスを上手いこと取れるのではないでしょうか。
結言
知性と反知性の間に偶然を設置する、そのバランスは意外と自由と秩序形成の両立に役立つのではなかろうかと思う次第です。
そう考えると、以前このブログでも話題にしたことがありますが抽選民主主義は本当に効果的なのかもしれません。