忘れん坊の外部記憶域

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ニューヨーク市長選とポピュリズムについて

 

 他山の石。

 

ニューヨーク市長選で着目したい点

 ニューヨーク市長選におけるゾーラン・マムダニ氏の勝利は世界的なニュースとなりました。

 ニュースやネットでは様々な切り口で彼の特色が語られていますが、彼が共産主義的な民主社会主義者であること、そしてイスラム教徒であることはそこまで重要ではないと思っています。

 もちろんウォール街を有する金融都市のニューヨークで民主社会主義者が市長となるのは大きな出来事ではありますが、市長は独裁者ではありませんのでそこまで大きな強制力を及ぼせるわけでもなく、民主社会主義者が市長になったからと言ってニューヨーク全体がそうなるわけもないでしょう。宗教も同様です、せいぜい彼個人の思想信条や信仰の自由の範囲であり、それをどうこう取り上げるのは筋違いかと思います。

 

 個人的に気になるポイントは『ポピュリズム』です。

 あまりストレートに参考事例を出すのも気が引けますが、トランプ的、或いは参政党的なポピュリズムが昨今の政治界隈では批判されています。

 そしてマムダニ氏の政治手法は明確にポピュリズムと見なされています。AllSidesで左派と評価されているブルームバーグでもマムダニ氏はリベラルで進歩的なポピュリズムと報道されました。

 実際、富裕層と貧困層の二項対立による単純化、既存政治への不信感を背景に若者や移民層へSNSで働きかけて支持を得る方法、金融エリートに対する反エリート主義的な主張と公約などなど、これらは典型的なポピュリズムです。

 

ポピュリズムと党派性

 トランプ的なポピュリズムは右派ポピュリズムとして大々的に批判されていますが、今のところマムダニ氏をポピュリズムとして強く批判している主流メディアはまだあまり見かけていません。

 マムダニ氏をポピュリズムと批判できるかどうか

 これは党派性を識別する上で重要な分岐点になると考えます。

 

 ポピュリズムは「多数派である民衆」と「少数派であるそれ以外」を二項対立にして煽る政治手法であり、大衆への迎合はある意味で民主主義的ではあります。

 しかし多数派たる民衆の枠組みを設定する上で、民衆と対比させた少数派の誰かしらを道徳的線引きの対象外として排除することがポピュリズムでは不可欠です。例えば外国人や富裕層などを民衆の敵として設定することでポピュリズムは機能します。

 よってポピュリズムは『排除の論理』が根底にあることから、右派であろうと左派であろうと一定の警戒が必要な思想です。

 

 右派ポピュリズムは危険だから批判すべきで、左派ポピュリズムは危険ではないから批判する必要はない、と考えるのは度が過ぎた党派性と言えます。外国人を攻撃するのは差別で金融エリートを攻撃するのは差別ではない、これは非常に恣意的な発想であり、誰に共感して誰を排除していいかを決めること自体が権力性を持っていて非常に差別的です。

 右派ポピュリズムの過度な排外主義は当然批判されて然るべきですが、民主社会主義的な左派ポピュリズムが包摂や共感を掲げながら富裕層や既得権益層を「敵」として排除するのは同様に批判をされて然るべきかと考えます。

 

結言

 要するに、主張は相反しているものの、トランプ的なやり方とマムダニ的なやり方は構図としては同一です。

 それにも関わらず「こっちはいいがあっちは駄目」と批判先を選別するようでは党派性に目を曇らされています。どちらも批判するか、どちらも批判しないか、そうした一貫性が必要です。

 トランプ的なポピュリズムを批判している人がマムダニ氏を同様に批判できるかどうかが今回のニューヨーク市長選に関する報道やオピニオンで注視したい個人的なポイントです。

 

 

補足

 「右派ポピュリズムは人種差別や暴力を伴うが、左派は経済的再分配を目指すのであり、これらは等価ではない」とした反論もあるでしょう。特にマイノリティ支援を掲げる左派ポピュリズムを「排除の論理」として批判することは、社会的弱者の声を封じかねないと思われるかもしれません。

 ただ、ポピュリズムの危険性は目的ではなく手法にあります

・民衆 vs エリートという二項対立の煽動

・敵の人格や存在そのものを否定する排除の言説

・単純化と感情的動員

 これらは右派でも左派でも共通して見られる構造であり、目的が善意であっても手法が排除的であれば民主主義的な熟議を損なうリスクは等しく存在する以上、右派左派ともに批判の一貫性を保つ必要があります。

 そもそも民主主義の根幹は「皆で話し合って決めること、誰も排除しないこと」であり、敵を設定することでしか機能しないポピュリズムは左右問わず警戒されるべきです。

 さらに厳しいことを言えば、左派ポピュリズムは「弱者・マイノリティの代弁」として正当化されがちですが、その名の下に他者を排除するならばそれは「弱者のための排除」であり、構造的には右派の「国民のための排除」と変わりません。包摂を掲げるならば、敵を作らずに対話をすべきです。「誰かのために誰かを排除する」構図では、結局は新たな差別構造を生むことになります。