ある日曜日、電車で近くで外を眺めながら立っていた若者たちの会話が聞こえました。
「なんであそこにたくさん人が居るんだろ、お祭りかな。キモいよね、日曜日って」
私自身はこの手の表現を基本用いませんが、ニュアンスくらいは理解を示したいとは思っています。
恐らく、混雑していることに対して自身が感じる何らかの嫌悪感を表現するための「キモい」なのでしょう。「気が漫ろになる」ことを厭うているのか、「気疲れする」ことに辟易しているのか、「気圧される」ことが受け入れ難いのか、どのような感情かは明瞭ではありませんが、それら様々な感情の混淆、或いは単独を表現しているのだと思います。
若者の言葉の乱れ、なんて単純化した話をしたいのではなく、もう少し分析的な視点を持って思索を進めてみましょう。
良し悪しの両面性
単純に語彙は豊富であったほうが良いのは事実です。ウィトゲンシュタインが述べたように「言語の限界が世界の限界」であり、思考の精度と幅は語彙に依存します。語彙は人の認知と世界の翻訳機に他ならず、人は知らない言葉をもって世界を認知することはできません。
高度な専門分野において専門用語が用いられているのはそれを用いなければ正確な認識や思考をすることができないためですし、それだけではなく日常的な事柄ですら語彙の量は影響を及ぼします。自身の感情を言語化できなければ自身の感情をメタ認知することも不可能です。どれだけ感情が豊かであっても、感情表現を豊かにするためには語彙が必要となります。
語彙は個人だけでなく意思疎通にも影響を及ぼします。曖昧で多義的な言葉は余計な誤解や伝達ミスを招きかねません。相手との認識のずれを減らすためには相手に正しく伝わる適切な語を選ぶことが必要です。
さらに言えば、言葉は当然ながらTPOが影響するものであり、必要な状況において必要な表現を選択することは自らの言説の説得力や信頼性に寄与します。
などと大人らしく若者の言葉の乱れ的なことへの苦言や戒めを並べてみましたが、あえて逆側の考え方も提示してみましょう。
語彙が豊富であれば良い、とだけ単純に考えることは必ずしも良いとは限りません。むしろ豊富な語彙がコミュニケーションの断絶を招くこともあるためです。
それこそ昨今の医療や科学において顕著なように、難解な語彙や専門用語が障壁となって一般人へ上手く情報を伝達できずにリスクコミュニケーションの不全を招いていることもあります。語彙が豊富であることは必要条件ではありますが十分条件ではありません。
また、語彙の豊富さが知性の優越として機能してしまう危険もあります。そうなると他者を劣った存在としてみるマウンティングや社会的排除を引き起こしかねません。
さらに言えば、若者言葉やスラング、ジャーゴンやそれこそ家庭内でしか通じない語彙など、集団は仲間意識を共有するための言葉を発明するものです。それらを安易に否定して洗練された語彙だけを是とすると、中間集団の紐帯を引き裂いて社会の連帯を損ねることになるかもしれません。
結言
まとめると、次のような話になります。
「言葉は時と場合に応じて選びましょう」
「言葉を選ぶためにも語彙は豊富なほうがいいでしょう」
「しかし語彙が豊富なだけでは足りません」
もちろん「若者の言葉の乱れ」的な提言は、語彙が豊富であることの利点を考慮した大人の親切心や善意からによるものでしょう。
しかしその背後にあるのは「若者の知性を低劣と見なす優越感」「知性や経験の差を人間的な優越と直結して考える過度なメリトクラシー」が隠れ潜んでいます。「排他的な思想を改めて包摂的でありましょう」と啓蒙すべき知性の側がそのように他者に対して排他性を持っていることの矛盾が現代ポピュリズムの推進剤であり、"若者の言葉の乱れ"はある意味で昨今の社会問題である教育・階層・世代などによる社会的分断の写し鏡とも言えるかもしれません。
率直に言って、「お前らは愚かだ」と批判することでは世の中は良くなりませんし、むしろ社会の分断を悪化させるだけです。馬を水辺に連れていくことはできますが、水を飲ませることはできません。
現代において私たちは「若者の言葉の乱れ」を単なる退廃や無教養の表れだとただ安易に指摘するのではなく、もう少し寄り添った視点を持つ必要があるのかもしれません。