忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

学ぶことによってなぜ心が柔らかくなるのか

 このブログでは教養について時々取り上げています。

 教養を意味する英語Culture(カルチャー)は多義的で、教養の他にも『土地の耕作』の意味を持っており、田畑の土を耕して柔らかくすることと同様に知識や教育によって心の畑を柔らかくすることが教養の意味するところです。

 人は学ぶことで教養を得ることができます。教養とは「学問・知識をしっかり身に付けることにより養われる、心の豊かさ」です。

 また、教養は英語で言えばカルチャー(culture)です。カルチャーには「文化」や「行動様式」以外に「土地の耕作」という意味があります。耕すとは田畑を掘り返して土を柔らかくすることです。

 つまり、教養とは知識や教育によって心を耕して柔らかくすることを意味します

 

 ただ、なぜ知識や教育によって心を耕すことができるかについては説明をしていなかった気がします。知識や教育がどのように柔らかい心を育むかには様々な説明が可能ですが、今回はその一部を取り上げていきましょう。

 

語彙の量こそが思考の幅を決める

 まずはロジックの視点で考えてみましょう。

 私たちが物事を思考する際には必ず言語の力を用いています。私たちは自身の持つ言語で取り扱えない事柄を思考することはできません。言葉によって理念や概念に形を与えることで初めて私たちの思考の枠組みに収めることができます。

 この言語とは必ずしも私たちが日常的に用いている日本語や英語といった個別言語に限らず、言葉として表せないノンバーバルな非言語コミュニケーションなども広義として含みます。言語とは音声や文字を用いて感情や思考などを伝達するために用いる記号体系及び行為を意味するものであり、例えば赤ん坊の泣き声も立派な言語活動です。

 つまり、思考の幅はその個人が持つ語彙の量に依存すると言えます。多くの言葉を知っている人はそれだけ多くの理念や概念を取り扱うことが可能です。ウィトゲンシュタインの言葉「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」は一定の真理を捉えていると考えられます。私たちは自身の語彙に無い事柄を語ることすらできません

 

 抽象的な話は難しくなるので、簡単な事例で考えていきましょう。

 例えば人を呼びたい時に日本では手のひらを下にして手招きしますが、これはアメリカでは逆の意味になります。このようなジェスチャーの記号的意味に関する語彙が無ければ、ジェスチャーによる意味の差異がそもそも思考の埒外になるでしょう。当たり前のことですが、人は知らないことは知らないのですから。

 あるいは相手の立場に立って物事を感じる共感、これはそうであろうと思われる感情を自らの心で再生する行為であり、再生するための語彙が無ければ正しく共感をすることができません。私は体験至上主義者ではありませんが、感情に関する語彙を増やすために様々な物事を経験することは有益なものです。

 

 つまり、柔らかい心とは他者の主義思想や見解、感情や思考を理解して受容する心であり、それらを理解して受容するためには知識や教育によって語彙の量を増やしている必要があります。教養を育むことで柔らかい心を得ることができるのは、このような理由です。 

 

勉強とは人の愛に触れること

 次に、感情の面で考えてみましょう。

 知識や教育を得るには行為として勉強が必要になります。

 勉強というと学校での勉強を想起して無機質でつまらないものだと思えてしまうかもしれません。しかし学校の勉強とは一種の暗記術であり、あれも勉強のやり方の一つではありますが全てではありません。知識を学ぶ行為はもっと自由なものです。

 勉強とは広義の意味での言語を用いて先達の残してきた知見を学ぶ行いです。そして偶然の発見であろうと名声や羨望を求める野心であろうと、全ての学問的知見はそれを誰かが後世に残そうと行動したからこそ残っているのであって、学問とはすなわち先人たちの他者を想う慈愛に触れる温かい行為そのものです。

 その点を理解していると、勉強が無機質なものとは思えなくなるのではないかと思います。勉強によって私たちが触れるものは、過去の人々が連綿と積み上げてきた誰かのためを想う智慧の集大成であり、つまりは人の想いそのものなのですから。

 

結言

 他にも教養と心の柔らかさについて様々な切り口で語ることができるでしょう。それを想像し模索することもまた心を柔らかくすることに役立つものです。折角ですのでひと時の思索をしてみるのも趣深いものかと思います。