「学校の科目には無駄が多いよ。どうせ皆忘れるし、古文や三角関数なんてほとんどの人が人生で使わないじゃないか。それよりももっと役に立つ実学を学校教育では教えるべきだよ」
といった類の言説を月に1回くらいの頻度で見かける気がします。
個人的にこのような意見には反対です。勉強の必要性や目的については何度か持論を書いてきましたが、情報の整理がてら再度述べていきます。
学校教育の目的
学校教育の目的は教養・平和と民主・健康の3つが主題であり、そもそも役に立つ知識を詰め込むことではありません。
(教育基本法)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
個別に見ていきましょう。
まず、わざわざ不健康になるような教育を施す必要は無いというのは万人の同意を得られることでしょうから、心身ともに健康な国民の育成については特に語る必要はないでしょう。
人格の完成とは「学問や知識をしっかり身に付けることにより養われる心の豊かさ」、すなわち教養のことです。
教養は英語でカルチャーと言います。カルチャーには「文化」や「行動様式」という意味以外に「土地の耕作」という意味もあります。農業や農学をアグリカルチャーと言いますが、そのカルチャーです。
耕すとは田畑を掘り返して土を柔らかくすることです。まさしく教養とは知識や教育によって心を耕し、柔らかくすることを意味します。
これについては太宰治の「正義と微笑」の一節を引用させてもらいます。
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
重要なのは様々な科目を学ぶことによって知識を蓄えることではなく、広く知見を得ることによって心を耕し豊かにすることです。だからこそ学校教育では網羅的に様々な科目を学ぶわけです。
平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質というのも簡単な話です。民主主義国家においては主権者である国民が物事を決定する権利を持っており、物事を決定するためには話し合いをする必要があります。そのため民主主義国家の形成者である国民には幅広い知見が不可欠ということです。知らないことを話し合うことは誰にも出来ないのですから。
なにもありとあらゆる専門家と同等の知識を持つ必要はありません。しかしその専門家が使う言葉には理解を示し、専門家と会話が出来る程度の教養や語彙力が必要です。
「早期に将来の進路を決めてその進路に役立つ学問を優先的に学ぶべきだ」という意見があることも分かります。しかしそれによって育まれるのは悪い言い方をすれば専門馬鹿です。
もちろん専門馬鹿が突出した業績を果たし得ることは事実であり、各分野において必要な存在です。ただ、誰も彼もが専門馬鹿では民主主義が成り立たないのです。
極端な話、「政治のことなんて分からないから専門家に任せればいいよ」となってしまっては、政治を学んだ限られた人だけが物事を差配することができるようになってしまいます。そのように少数の人間が政治を判断する状態を民主制とは呼びません、人はそれを専制制や封建制と呼ぶのです。
役に立つかどうか誰が判断できるのか
そもそも役に立つ実学というのは誰が判定できるのでしょうか?
近い将来であればどのような学問分野が役立つかという予測は立つでしょうが、10年後、30年後に役立つ学問なんて誰にも分かるものではありません。今現在役立つ知識を学生に詰め込んでもそれが社会に出た時に役立つとは決して限らないわけです。
「別にそんな長期間役立つ必要はない、その時々に必要な知識はリスキリング(技能の再教育・再開発)をすればいい」となるのであれば、それこそ学校の勉強で何を教えたって変わりないはずです。
ここが重要なところで、学校とは知識を学ぶところではなく、知識の学び方を学ぶところです。誰にどのような知識が将来役立つかなんていうのは誰にも分からないことであり、だからこそ役立つ知識そのものを詰め込むのではなくその時に必要な知識を学べるよう学びの作法を学ぶのが学校であり、必要なのは生涯に渡って勉強ができる技能を身に付けることです。そのためにも学び方を教える学校の勉強というのは不可欠だと言えます。
「勉強ができる」というのは「たくさん知識を持っている」ということではなく、まさに読んで字のごとく、文字通りの意味であることが望ましいものです。
余談
他にも「そもそも誰が何に興味を持つかはやってみないと分からないから網羅的に体験させる」というような効果も学校にはありますが、話が長くなるためこの辺りで終わりにします。