忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

知識を活かすことは、何もビジネスには限らない

 「知識は持っているだけでは駄目で、活用しなければならない」

 このような言説を時々見かけるかと思います。

 この言説自体はとても正論です。役立てていない知識は持っていない知識と同義とさえ言えます。

 

 ただ、この正論の曲解とまでは言いませんが、「活用」の意味する範囲を狭くしてしまっている人がいるように見受けられます。それは例えば「知識は溜め込むだけではなく、その知識を使って大金を稼いでこそだ」といった方向性のものです。

 しかしながら知識の活用とは何もビジネス的な成功だけを意味するものではありません。もちろんビジネスに活用することは決して間違いではないのですが、知識を活用することの価値はそれよりもっと大きなものだと考えます。

 

知識と教養

 知識を得ることは心を豊かにすることと同義です。過言に思えるかもしれませんが、存外これは事実だと言えます。

 人は学ぶことで教養を得ることができます。教養とは「学問・知識をしっかり身に付けることにより養われる、心の豊かさ」です。

 また、教養は英語で言えばカルチャー(culture)です。カルチャーには「文化」や「行動様式」以外に「土地の耕作」という意味があります。耕すとは田畑を掘り返して土を柔らかくすることです。

 つまり、教養とは知識や教育によって心を耕して柔らかくすることを意味します

 

 不勉強で教養の無い人はエゴイストとなります。エゴイストの振舞いは偏屈で凝り固まった我儘放蕩なものであり、それは心が耕されておらず硬いままだからです。対して教養のある人の振舞いは穏和で他者を慈しむ広い心を持った柔らかいものとなります。

 知識を活かすとは、まさにこの耕す行為に他なりません。ただ知識を学び溜め込むのではなく、自らの心の土壌を柔らかくするために用いることこそが「知識を活かす」ことの意味です。

 

日常にこそ知識の価値はある

 つまり、ビジネスの成功という名の花を芽吹かせることだけが知識の活用ではなく、柔らかく豊かな心を持つことによって生き辛さを軽減し、日々を豊かに心安らかに過ごせるよう心の環境を整えることも立派な知識の活用です。

 

 教養を学ぶ学問を一般にリベラルアーツと言います。

 リベラルアーツとは人間を束縛から解放するための知識です。

 ここで、束縛とはどのようなものかを考えていきましょう。

 知識によって耕作地を広げて豊かな草木を育んでいない心は、寒々と荒廃したとても窮屈なものです。それは狭い己の「我」という名の檻に囚われている状態だと言えます。この「我」に囚われている状態こそがまさに束縛です

 教養が無ければ世界はどこまでも「我」の視点しかなく、「我」に囚われると世間はとても辛いものとなります。なにせ世界は「我」の思い通りになることなどほとんどなく、「我」の気に入らない人が闊歩し、「我」の気に入らない言葉を発し、「我」の気に入らない行動を取るものです。道が渋滞していて腹が立つ、仕事を妨害されて気に入らない、望んだ通りに人が動いてくれない、あれが嫌だ、これが嫌だ、ああなればいいのに、こうすればいいのに、そういった「我」を軸とした思考が心を支配することになります。

 

 知識を活かして教養を身に付けていれば、この「我」の枷を外した思考を持つことができます

 もしかしたら誰かが事故を起こして渋滞しているのかもしれません、体調が悪くて仕事に支障を来たしていることも考えられますし、相手には相手の望む行動があります。耕された心は柔軟であるため、様々な状況を想定して異なる視点で物事を観察できるようになります。「我」以外の視点を想定できるようになるからこそ、教養のある人の振舞いは穏和で他者を慈しむ広い心を持った柔らかいものです。

 

 他者の振る舞いを「そんなことはオレの知ったことではない」と思い込むことこそが「我」の枷に囚われている状態です。知識と教養はその檻を広げることができます。

 

 「我」を手放すべきだと言いたいわけではありません。「我」は自身を確立するために必要不可欠なものであり、それを捨て去っては自らを世界に存続させる軸が無くなってしまいます。

 つまり、知識を活かすとは選択権を持つことです。どのような時にどう物事を見るかを選択できることに教養の価値はあり、自分で選べるようになることこそが知識を活かしているのだと言えます。

 

結言

 生きていれば誰だって嫌な時間や好まない事柄に触れざるを得ないものです。その時に「我」の苛立ちに囚われるか、それとも異なる視点を選択するか、その選択肢を持つことこそが自由であり、知識を活かすことで得られるものです。