忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

違う意見を聞くのは楽しいことなんだ

 油断をするとヘビィなテーマを語り始める当ブログ。

 堅苦しい話が連続しないよう、なるべく軽い話を織り交ぜていきたいものです。

 

 つまり、今回は軽い話をします。

 とはいえ軽重は人が判断することでもある以上、必ずしも軽い話になるとは限りません。

 

物語を楽しむ

 当ブログでは隙あらば「自分とは違う意見を聞こうぜ」と述べています。記事タイトルに入っているだけでもすぐに複数の記事が見つかりますし、月に一度くらいは語っているくらいの頻度です。

 

 なぜ違う意見を聞くことを推奨するかというと、これはもう真面目に説明するのであれば「話し合いこそが民主主義の前提条件」だとか「エコーチェンバーの回避」だとか「ラテラルシンキングの基本」だとかそういった切り口で語ることはできますし実際にいくつもの記事で語ってきましたが、基本に立ち返ってみましょう。

 

 違う意見を聞くことは、単純に面白いことなのです。

 

 人の意見には物語性があります

 そもそも人が物語を見るのは自身では想像もしていなかった空想や世界を娯楽として楽しむためです。自らの想像の範囲内で動く物語はあまり面白いものではありません。だからこそ物語には意外性と想像の枠を超えることが求められます。

 もちろん物語の楽しみ方は人それぞれであり、『共感』を主軸として自身を主人公と重ね合わせて楽しむ方法が主流かもしれませんが、たとえ主人公の心情に意外性を感じなくともストーリーライン上に想像を超える障害やイベントを設置することは娯楽性を保つために必要なものです。

 そして物語で共感できないキャラクターを楽しむには、そのキャラクターがなぜそのような価値観を持っているかを想像することが役立ちます。生まれや育ち、教育や事件、私たち生きている人間と同じように物語のキャラクターも様々なイベントによってそのキャラクター性が構築されているものであり、それを読み解いていくことには自らの経験では理解できない世界を見ることができるために娯楽性が生じます。

 

 

 違う意見を聞くことは物語とまったく同じ構造を持っています

 自分では考えもしなかった見解を知ることができたり、考えたとしてもそれを確信するに至らなかった見解へ身を委ねる感性の違いに思いを馳せたりと、違う意見を聞くことはまさしく物語的です。小説やドラマよりもお手軽に楽しむことができる娯楽であり、知的好奇心を容易に刺激するという点で他者の異なる意見に勝るものはありません。

 

 つまるところ、違う意見を聞くことは楽しいことなのです。

 「なんでそんな意見を持つんだ、気に入らない!」と苛立ってしまったり、あまつさえその意見を圧し潰そうと闘争を仕掛けるのは勿体ないです。

 考えてみればシンプルな話で、他人が違う考えを持っていることに対して苛立つ必要なんてありません

 

結言

 自身と同じ意見を聞く行為は共感の充足や安心感の獲得に繋がるものであり、なにも悪いことではありません。孤独への耐性は人それぞれであり、同じ意見を持つ人同士で連帯することによる不安の解消が必要になることはあるでしょう。

 ただ、時にはでいいので、自らの知的好奇心の趣くまま、異なる意見を聞き、物語的に楽しむこともいいのではないかと思います。

 

 

余談

 ちなみに、私は行きつけの床屋でのお喋りが好きです。

 理容師さんは初老の方で、何故か政経やニュースの話をよく振られます。まさしく床屋政談そのものです。相手によって話す内容を変えているようなので、私にはそういう話を振ろうと思っているのでしょう。

 理容師さんはもうびっくりするくらいに私とは違う意見を持っています。そこが実に面白いところです。なるほどそういう考え方や見方もあるのかと私の知的好奇心を満足させることができますし、床屋政談なのですから気楽に流せばいいだけであり、たとえ納得がいかなかったとしても相手の意見を変える必要は皆無です

 時に「こういう見解はどうでしょう?」と異論を提示して意見を引き出し、最後は「なるほど確かにそうかもしれないですね」と締めれば相手は満足こちらも満足、ウィンウィンで終わることのできる、負けも失敗もない気楽なコミュニケーションです。