忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

自らの人生を生きる上での教養の必要性

 教養とは知識や教育によって心を耕して柔らかくすることです。豊かで柔らかい心を育むことで「我」の枷を外して様々な視点を持つことができるようになります。

 知識によって耕作地を広げて豊かな草木を育んでいない心は、寒々と荒廃したとても窮屈なものです。それは狭い己の「我」という名の檻に囚われている状態だと言えます。この「我」に囚われている状態こそがまさに束縛です

 教養が無ければ世界はどこまでも「我」の視点しかなく、「我」に囚われると世間はとても辛いものとなります。なにせ世界は「我」の思い通りになることなどほとんどなく、「我」の気に入らない人が闊歩し、「我」の気に入らない言葉を発し、「我」の気に入らない行動を取るものです。道が渋滞していて腹が立つ、仕事を妨害されて気に入らない、望んだ通りに人が動いてくれない、あれが嫌だ、これが嫌だ、ああなればいいのに、こうすればいいのに、そういった「我」を軸とした思考が心を支配することになります。

 

 この「我」の枷を外して檻に囚われないことについて、もう少し詳述していきます。

 

自由とは選択肢があること

 他者の振る舞いに対して、他者を考慮せず自分を中心とする意見を持つ人もいるかと思います。

「貴方の都合は関係ない」

「それはオレに関係ない」

「そんなことはオレの知ったことではない」

 このように、他者の体調や都合、機嫌や制約などを考慮せず、自儘に振舞う類の方です。

 

 このような考え方は相手の事情に振り回されず自分を中心とした人生を自由に生きているように感じるかもしれませんが、これは実のところ自由とは言えません。

 むしろその正反対です。極めて狭い「我」の檻に囚われている状態に過ぎず、言動は自由に見えるかもしれませんが心が自由ではありません

 なぜならばこれは外部の刺激に反応しているだけだからです。他者の振る舞いに対して無意識的かつ本能的に「我」が反射を示しているだけです。

 自由とはどのような状況であろうとも自らが選択をできることであり、「他者を気遣う」「融通をきかせる」「己の意を通す」といった様々な選択肢から自身が意識的に選んだわけではない以上、これは自由とは真逆の状態にあります。

 

 真に自分の人生を生きるためには外部の刺激に左右されない己を確立する必要があります。「我」の自動的な反応を抑制し、その枷を外さなければ真に自由とは言えません。

 そのためには教養の助けが必要不可欠です。自由で多様な選択肢を持つためには豊かで柔らかい心が欠かせません。教養こそが豊かで柔らかな心、すなわち想像力を育み、数多の選択肢を生み出します。教養によって耕作されていない硬い心では多様な選択肢は芽吹きようがありません。

 

結言

 もちろん選択の結果として「そんなことはオレの知ったことではない」とすることは自由です。

 ただ、そこには、

「貴方の事情は分かるが」

「そんなことはオレの知ったことではない」

「とオレが選択する」

そんな機序が必要です。

 重要なのは外部の刺激に左右されないこと、状況に振り回されず自らの意思で選ぶことだと言えます。相手の事情に振り回されて己の意を通せないのも”囚われ”であり、相手の事情を考慮せず己の意のままに振舞うことしかできないのも”囚われ”です。前者は「我」の檻の中であり、後者は檻から出なければならないとする「我」の檻の中です。

 

 枷を外し、檻の中に居ることも檻から出ることも自らの意思で決められるようになる。

 それが自由であり、自らの人生を生きていると言えます。