忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

コミュニケーション能力は重要なサバイバル技術のひとつ

 技術屋の世界に生きている人間の感覚ではありますが、技術屋が楽しく仕事をするためには何はともあれ技術力が必要です。

 専門家やスペシャリストの世界は大抵の場合で実力社会ですので、仕事が出来る人は裁量権を多く得られて余計な横やりを入れられることも無くなり、マイペースに仕事ができるようになります。何より「そいつにしか出来ない高度な仕事」が出来る人材は組織の階級とは別枠の序列者として組織内で権限を振るうことができます。

 そして人は裁量権があり横やりが入らない状態、すなわちマイペースに仕事をしている時が一番「楽しい」ものです。

読書好きの人が机に縛り付けられて無理やり読書をさせられても楽しめないように、コーヒー好きの人が無理やりコーヒーを口に流し込まれても嬉しくないように、人は「好きなことをやる」よりも「好きにやる」こと、つまりやりたいようにやることこそが面白さを感じることができます。

つまるところ、「面白い仕事」と「つまらない仕事」があるというのは少し誤解です。そうではなく、「仕事が面白い」状態と「仕事がつまらない」状態が存在していると表現するのが正確でしょう。

 

 よって技術屋が楽しく仕事をするためには技術力を磨くことが最短ルートと言えます。技術職は「そいつにしか出来ない高度な仕事」の種類が多いことから、仕事が出来れば自由を得やすい職種の一つであることは間違いありません。

 

 とはいえ、そんな能力至上主義社会の技術屋界隈においても技術力以外でサバイバルをこなす人は実在します。

 それは皆さんご存知、コミュニケーション能力です。

 

憎めない奴

 厳しい話ですが、技術系の界隈において、技術力が無い人には裁量権が与えられず肩身が狭い環境となります。酷い場合は人から憎まれます。無能は悪かと言われれば当然議論の余地があるはずですが、実力主義社会では悪だと定義されているためです。

 そんな殺伐とした世界においても他者から「憎めない奴」と思われている人々がいます。それは画一的ではなく、愛嬌や気遣い、親切や個性など様々な形態を持ってはいますが、総じて他者から愛されるキャラクター性を持っています。

 

 他者から愛されるキャラクターは総じてコミュニケーション能力が抜群に高いと言えます。コミュニケーション能力はよく口の上手さで語られることがありますが、それは表層的なものに過ぎません。たとえ口下手でも愛されるキャラクターはいます。

 コミュニケーションの肝は意思の疎通です。言語的・非言語的を問わず、円滑な意思の疎通こそがコミュニケーション能力の高さを意味します。

 冒頭で述べた通り、人が楽しく仕事をするにはマイペースにできることが重要であり、コミュニケーション能力はまさにその点、「他者の意を阻害しないこと」に極めて効果的です。その人と仕事をすると意が阻害されず楽しいからこそ愛されるキャラクターは愛されているであり、それを生み出しているのはコミュニケーション能力に他なりません

 

 補足的ではありますが、真のコミュニケーション強者は他者の意を阻害せずに自らの意のままに他者を乗せることができます。重要なのは阻害が生じず疎通できることであって、他者の意を阻害しないことは必ずしも自らを曲げて他者に従うことを意味しません。

 

 なお、仕事が出来る人が憎まれにくいのも同様の理由で、その人と仕事をするとスムーズに仕事が進む、意の阻害が生じないから憎まれにくくなります。逆にどれだけ技術力があっても他者の意を阻害する性格の人は、残念ながら憎まれることがあるでしょう。

 

結言

 技術屋は技術力が重要とは言いましたが、管理職以上のレイヤーではまた別の論理が働きますし、組織が技術屋をどの程度優遇しているかによっても得られる自由度は異なります。また最終的には組織内の人間関係が支配的ではありますので、技術力さえあれば自由だとは断定できません。そもそも誰もが図抜けた技術力の保有を必ずしも目指すべきだとは思いませんし、誰もがそうなれるとも思いません。

 よって技術屋へ優先的に推奨するのは技術力の向上ではありますが、それ以外の道もあることを留意しておくと気が楽かと思います。コミュニケーション能力はそのひとつです。

 もちろん、コミュニケーション能力でサバイブするのもまた大変ではありますが。

 

 何にせよ過去も現代も変わらず、社会をサバイブするには何かしらのサバイバル技術があったほうが生きやすいものです。就職活動中の学生が揶揄しがちなコミュニケーション能力も、現実には極めて有能で有益なサバイバル技術です。

 

 

余談

 個人的な見解として、私自身は技術屋である以上明確に実力主義の徒ではありますが、他者の無能をあげつらう輩こそが無能だと思っています。

 他者の無能を気にする暇があるならば己の才を磨くことに熱中すればいいだろうに、そうしていないのですから。