忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人を動かす梃子への理解と忌避感

 今年度から仕事の回し方が大きく変わったのでそれについて思うところを記録してみます。

 仕事への向き合い方や考え方は年齢や立場によって大きく変わるものですので、今回の記事も未来の私や別の立場の人からすればまた異論があるはずです。それでもあえて今思っていることをまとめることには意味があると考えます。

 

仕事のやり方の変化

 事業所で設計屋をやっていた頃は、基本的に仕事は頼まれる側でした。

 もちろん他所へ仕事を頼む機会はたくさんありましたが、どちらかと言えば頼まれることが多くなります。市場にマッチした新しい製品の設計なり、製造上のトラブルに対する対処なり、市場トラブルの分析なり、生じた事態や要求への対処が主な仕事であり、案件の流れ着く先、プロセス中の停留所として設計屋は存在しています。

 頼まれる側からすれば仕事は受動かつ主体です。仕事自体は他所から投げられるため受動的で、しかしどう受け取るか、どう動くかを自分で決めて自分で動く主体性を持っています。

 

 本社で企画屋をやっている今は、仕事を頼むことが遥かに多くなりました。

 市場情報を収集する上で技術営業のような役割を持っている部署の都合上、技術的な側面に関しては頼まれることも色々とありますが、立案した企画を各事業所の設計屋や研究所の研究開発屋に持ち寄って実現を頼むことが主業務となります。

 頼む側からすれば仕事は能動かつ客体です。自ら起案して仕事を生み出す能動的な側面を持ちつつも、それを実際に形作ることは他部署へ依頼しなければならず、どう動いてどう組み上げるかを自らが決めることは出来ないことから仕事との向き合い方は客体性が強くなります。

 

人を動かす梃子

 企業経営者や企画のように上流工程の人、すなわち集団を差配し組織として意思決定を行う立場として他者に仕事を頼む側の人人の動かし方に精通することが必須です。組織とはつまるところ人であり、そこに所属する人々の動きで組織の形や出力が定まることから人をどう動かすかが究極的には肝要となります。だからこそ歴史的な名著として名高いデール・カーネギーの『人を動かす』を筆頭に、実用書やビジネス誌など様々な媒体で人の動かし方が語られているのでしょう。

 

 人の動かし方に単一の奥義、銀の弾丸はありません。突き詰めて換言すれば「快・不快」、すなわち感情に働きかけることが人の動かし方の神髄だと思われますが、人はそれぞれ異なる感情のトリガーを持っており、他者の感情への働きかけ方には無数の手法があるためです。だからこそ様々な方法論や警句が今なお日々更新されながら発信され続けています。

 それこそ情を重視する人もいれば論理性や能力に重きを置く人もいます。利得が最優先の人もいれば権威には素直に従う人もいます。恩義で動く人もいれば恐怖に突き動かされる人もいます。

 それら様々なトリガーを引くだけの技術を取り揃えている人が真に他者を動かす達人だと言えるでしょう。

 

技術を学ぶことへの理解と忌避感

 ただ、そういった技術を学ぶことに個人的には理解と忌避感の双方を感じています

 言い方は悪いですが、そういった手法は小手先のように感じるためです。

 もちろん人を動かす立場であるならば他者が気分良く動けるように配慮することはむしろ倫理的ですらあります。人を動かすための技術を学ばずに権威や恐怖のみで他者を動かすような仕草は決して理想的なものではないでしょう。

 だからこそ、それこそ例えば血筋や縁故で組織の上層部を固めたり偉い人が休日にゴルフをする理由も理解はできます。血縁による権威性やスポーツによる連帯は非常に効果範囲が広く、多数の人々の感情トリガーを引けるためです。

 そういった諸々を重々理解しているものの、私自身は技術屋の実力主義的思想が脳に沁みついており、能力以外で他者を動かすことに個人的な忌避感を感じているだけです。

 

結言

 要するに、組織人として私はまだ成熟していないのでしょう。人を動かす梃子の必要性を理解しつつも忌避感を覚えているのは私自身の感情トリガーを引けていないことが原因であり、自身ですら上手く動かせない人間が他者を動かせるはずもありません。

 焦ったとしても一足飛びになんとかなる話ではありませんので、徐々に理解を深めて学んでいきたいものです。