忘れん坊の外部記憶域

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巨人の肩の上に立つときは謙虚な気持ちが必要

 技術職をやっていると他者から「頭が良い」と評価されることが時々あります。

 その認識ははっきり言って誤りです。知性とは単純な良い悪いの物差しで測定できるものではなく、「技術職だから頭が良い」と考えるのは大きな誤解です。

 今回は学問的な知性の分類ではなくもっと大まかな知性に関して述べていきます。

 

学問の落とし穴

 医者や弁護士、エンジニアや研究者など専門性を有する職業に勤める人は他者から頭が良いとされることがあります。

 確かに専門職の人は難しいことをたくさん知っているかもしれません。

 しかしそれは難しいことをたくさん知っているに過ぎないものです。難しいことをたくさん知っていることは知性の証明とはなりません。それは知識の多寡であり知性とは別物です。

 難しいことを知っていることと個人の知性は必ずしも相関を示すわけではなく、優れた知見を適切に活用できる英知もいれば、自儘に振舞うため知見を乱用する愚か者もいます。碩学(学問が広く深い人)と衒学(学識をひけらかし傲慢な態度を見せる人)の差は知識の量ではなく知性の差で生まれると言えるでしょう。

 

 極端に言えば、学んできた専門分野ですら差異が出るものです。簡単な例としても「医者は弁護士よりも知性があるか」と言えば、それは人によるとしか言えないでしょう。

 例えば農学。これは長い歴史の中で膨大な知見が確立されており、先端技術に限らず一般的な農業ですら様々な知識が必要です。素人が急に明日から畑を始めることなんてできません。農業は農学を学び適切に取り扱う知性が必要不可欠な分野であり、その知性は医学や法学と比べて決して引けを取るものではないでしょう。

 医者と農家は別の知識体系を身に付けているに過ぎず、これらは上下の関係ではありません。

 

 つまり知性とは単純な良い悪いの物差しで測るものではなく様々な形をもって現れる多元的なものです。

 象牙の塔で複雑な学問を学ぶことに限らず、現場で効率化を図り改善を進めるものも知性であり、知識を活用して世の役に立てたり日常をより良くしたりすることも知性です。他者に比する活動力を発揮できることも知性であり、優れた芸術を生み出すことも知性です。他者の気持ちを察して温和に接する優しさや親切心も知性です。知性とは単一基準で上下に存在するのではなく、それぞれ別のレイヤーに存在していると認識する必要があります。

 専門職の人を「頭が良い」と誤解しているのは無意識で知性や学問の種類に上下をつけてしまっている状態ですので、注意が必要です。

 

謙虚な気持ちがなければ衒学者に陥る

 知識と知性の違いは他者からの評価よりもむしろ専門的な知見を学んできた人が自ら自覚することが必要です。

 複雑で難解な物事を知っていたり考えることができるのは過去から連綿と積み重ねてきた知識を身につけているだけであり、その全てを自らが生み出してきたものではありません。

 すなわち巨人の肩の上に立って広く世界を見渡せるのは当人が優れているからではなく先人の積み重ねてきた巨人が優れているからです。それを忘れて「他者や先人よりも自分が優れている」と考えるのは驕りに他なりません。

 優れた学識を学んだ人は、自身が優れているのではなくその学んできた学識が優れているのだと努々留意する必要があります。それを忘れては学識をひけらかして他者に疎まれる衒学者に陥ることでしょう。

 

結言

 技術職は様々な職種の人と関わる仕事です。そして様々な知性と出会う仕事でもあります。

 例えば私の観測範囲一つ取っても、世界初の新しいシステムを開発する知性もあれば、既存技術を組み合わせて生産コストを低減する知性もあります。無駄のない合理的な計画を立てる知性もあれば、計画よりも効率的に生産ができるよう現場での作業手順を改善する知性もあります。よくコミュニケーションを取って円滑に人々を動かす知性もあれば、他者の苦境に共感して親切心を発揮できる知性もあります。それらは別々の現れ方をしている知性であり、上下や優劣の関係ではありません。

 研究開発者を現場に配属しても同様の成果を出せないように、そしてその逆もできないように、これらの知性は置き換え可能なものではありません。

 だからこそ、上下や優劣の単一指標の物差しで測るのは間違いです。