常日頃より暴力や強制よりもアサーティブなコミュニケーションや話し合いを重視する旨を述べている私ではありますが、実は我儘を主張することを否定してはいません。我儘自儘に振舞うことそれそのものには否定的ですが、我儘を主張することは悪くないと考えています。
その線引き、そもそも我儘とは何をもってそうなるかについて軽めに論考していきます。
我儘の線引き
我儘の個別事例などを出すと角が立つような気がしますので、今回は事例や言葉の定義などを飛ばして言いたい結論から述べます。
結論は「過程においては全力を出し、結果においては受け入れろ」です。それが我儘か否かの分け目になると考えています。
もう少し持って回った言い回しをするならば、過去の記事で述べたような以下のことを是と考えています。
今よりも多く得たいという人間の欲を否定はせず、得るものを増やしたければ智慧を磨き自己を律し努力を怠らないこと。
しかしその努力によって得てきたものや得たものに不満を持つことは戒める。得られたものに不満を持つことは自身の努力以上の対価を要求する乞食となりかねないものである。
己を理解して、己の欲に打ち勝つ人であれば得たものに満足することができる。
満足はゆとりを生み、それゆえに豊かな心を持つことができる。
つまり「足るを知る」とは、今あるもので満足するのではなく、得られたものに満足することだと解釈します。
望む通りの結果を得たいのであればそのための努力を怠るべきではなく、しかし結果に対しては鷹揚な気持ちで受け入れることが理想的です。
我儘の線引きは過程と結果の違いです。
”儘”とは状態を指す言葉であり、結果が”我”が思う通りの”儘”にならないことに対して不平不満を述べることが我儘であり、自らの主張が通らなかった時にその結果を受け入れないことこそが我儘です。
自らの主張を述べることは我儘ではありません。主張は話し合いにおける過程に過ぎないのですから。それぞれが主張をしてその主張を調整することが話し合いです。だから主張自体を「我儘かもしれない」と控えることはありません。
もちろん高圧的や威圧的ではなくアサーティブに主張する必要はあります。自らの主張をノンアサーティブに押し通そうとするのは主張が我儘なのではなく態度が我儘ですので、我儘に該当します。
自らが思うところを主張せずに我慢して結果的に不平不満を抱えてしまう方がいることは分かりますが、それはあまり健全ではなく本人にも宜しくないと思っています。
自らが思うところを主張せずに相手が察することを期待するには限度があります。世の中には私のような鈍感人間がごまんといますので、相手がそうではないことを期待するのは少し分が悪い賭けです。確率や構造に従って必ず不平不満が募ってしまいます。
また、控えめな人には厳しい話ではありますが話し合いとは双方向のものです。相手の言い分を聞くことと同時に自らの言い分を伝える必要があります。自己主張をしないことは話し合いへの消極的な不参加に他なりません。辛辣で申し訳ない物言いではありますが。
結言
つまるところ、スポーツと同じようなものです。
練習をせずに負けたとして、それで勝者に文句を言うのはあまり格好の良いものではありません。
それよりも勝つための努力を全力で行い、しかし勝負に負けたら結果を受け入れて爾後に役立てる。そのほうが爽やかで、健全で、心に優しいものです。
話し合いも同様に、過程においては全力を出し、結果においては受け入れることが理想的です。