ありませんので諦めましょう。達観こそが人生です。
今回はそんな、たまさかの投げっぱなしトークを。
過剰な禁止
刃物は便利な器具ですが悪い人が用いれば他者を殺傷できる道具でもあります。その利害の帳尻を合わせた結果、限られたところにおいて適切な取り扱いをする場合ではあれば許容されており、無制限に誰もがどこでも使えないよう法的な制約を受けています。
このように大抵の物事は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」であり、許容と禁止の境目はTPOに応じて変わります。
しかしながら過保護な人は大抵の場合で過剰な禁止を求めます。
もちろん幼児が台所の包丁で遊んでいれば飛び掛かってでも阻止するのが適切です。幼児が刃物に触れることを禁止するのは過保護とは言えません。
とはいえ危険だからと刃物に生涯触れないよう管理することは過保護でしょう。最初は監視下のもと徐々にハサミや包丁の取り扱い方を教えることが理想的です。
世の中から悪いものを排除しようとする動きの一部は過保護によるものから生じます。それはTPOやゾーニングといった区別のレベルでは収まらず、完全な排除に至るまで過激化していきます。
愛から生まれた愛のようで愛ではない感情
過保護の根底にあるのは愛情、なのだとは思います。ただ、単純な愛情ではないことが少し物事をややこしくしているのかもしれません。
プルチックの感情の輪から引用すれば、愛(Love)とは喜び(Joy)と信頼(Trust)が組み合わさった応用感情です。
しかし過保護な人の過保護には信頼(Trust)がありません。むしろ信頼していないからこそ過剰なまでに保護をしようとします。
信頼の反対感情は嫌悪(Disgust)です。そして喜び(Joy)と嫌悪(Disgust)の組み合わさった感情は病的状態(Morbidness)となります。これは病的好奇心や病的関心のように過剰なまでの執着に対して用いられる言葉です。
つまるところ、過保護は愛とは違って信頼に依拠していないために対象へ過剰なまでに執着している状態だと言えそうです。根底は愛情から生まれたものでしょうが、愛のようで愛ではない感情に変容しているのだと考えられます。
諦めが肝心
困ったことに、過保護をどうすればいいかは答えがありません。
過保護は愛着対象の健全性を損ねる点をもって悪いと言ってしまってもいいかもしれません。
しかし人の愛情から生まれた感情をそれが善行ではないからと断罪することは難しいでしょう。善意が常に善行となるわけではありませんが、善行ではないことを否定することはできても善意そのものを否定することは倫理的ではありません。過保護そのものは論理的に問題があると言えますが、過保護を生み出す人の心まで否定するのは限度を超えています。
そもそも過保護が病的状態(Morbidness)によるものであれば、それを抑えることすら非現実的な目標です。感情は心の奥から湧き上がってくる自然なものであり、そんな他者の自然な感情を操作することなんてそうそうできませんし許されないでしょう。
極論ですが、過保護な人はもう仕方がありませんので好きにさせるしかないと思っています。過保護を受ける側や第三者が影響を受け過ぎないよう自衛的に意識するしかないです。病的状態(Morbidness)の基である喜び(Joy)と嫌悪(Disgust)は感情の中でも強い部類に入りますのでそれを止めることはできません。やりたいようにやらせるしかないです。
世の中には過保護な人がそこそこにいらっしゃいますが、世の中なんてこれに限らず大抵のことは儘ならないものですので、まあそんなものです。
結言
私は理系の技術屋の男性らしく、問題に対しては解決策を提示することを良しとしています。こうすればいいのではないか、ああすべきだ、そういったまとめ方を好むのは職業病でしょう。これもある種の病的状態と言えるかもしれません。
まあ、たまには解決策の無い話をするのも一興です。
過保護を受ける側からしたら困ったものではあるのですが、愛情から沸き起こる他者の情熱を止める方法なんてさっぱり思い付きませんし、なんなら善悪ですら判断しがたいものですので。過保護な人は情が深いことには間違いありませんし、そういう人情に厚い人は好みです。
誰にだって何かしらの病的状態(Morbidness)はありますよ、ええ。