忘れん坊の外部記憶域

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政治不信をあまり感じないことに対する自己分析

 政治クラスタでは政治不信や政治家不信をよく見かけます。

 もちろん古今東西で政治に不信は付き物ですので、不信があること自体は自然なことです。

 ただ、正直なところ私はそこまで不信を感じていません。

 これは何故か、自己分析を交えつつ考えてみます。

 

不信は何故生じるか

 人が他人や物事に対して不信を覚える機序は単純です。不信の反対は信頼であり、人は信頼を裏切られると不信に転じます。信頼をプラスとすると、不信は能動的に信じないという感情であり、ゼロではなくマイナスです。

 政治不信や政治家不信が世界に蔓延っているのは人々の期待と信頼を裏切ってきた政治の責任がまずあります。過去の様々な経緯を鑑みれば人々が政治に不信を覚えることは当たり前のことでしょう。

 

 不信の機序から分かることとして、私が政治不信をそこまで持っていない理由は単純明快に、そもそも信頼していないからです。不信を感じるためにはまず信頼することが不可欠ですが、私は端から信頼していないので不信に転じることがありません。プラスでもマイナスでもなく、ゼロです。

 

何故不信を感じないかの自己分析

 これは世代を理由とした理屈付けが可能かもしれません。世代別の投票率を見ても分かるように政治への信頼感が醸成されなかった若年世代はそもそも政治に期待していない傾向があります。

 ただ、私は投票に行きますし政治への参画を拒絶してもいませんので、単純な世代論だけでは説明しきれないことも事実です。私は期待と関心をまったく別の感情だと考えています

 

 私が人間に対して無謬性の適用を嫌っていることも一因かと考えられます。

 つまり儒教的価値観、あるいはノブレス・オブリージュの価値観が薄いことが理由です。

 儒教には徳のある統治者がその徳をもって人民を治めるべきだとする徳治主義があります。これは表現を変えると「貴人や為政者など人々の上に立つ者は徳を持っていなければならない」とする考え方です。また現代のノブレス・オブリージュは富裕層や為政者、有名人など地位が高い人は「社会の規範となるように振舞うべきだ」とする考え方です。

 

 私は設計屋であり、人間工学や安全工学も専門の範囲です。その分野の知見として人は誰しも間違えるものであり無謬ではあり続けられないと考えます。

 これは儒教の徳治主義や現代のノブレス・オブリージュとは相性が悪い考え方です。これらはそれが過剰になると因果が逆転して、徳があるからその地位に就いたのではなく、その地位にいるならば徳があると考えるようになります。そしてその結果、為政者は徳があるのだから誤った意思決定を行ってはいけないと人々は信頼するようになります。

 しかしながら、地位や立場があろうとも人は人です。誰だって必ず間違えますし、失敗をします。

 よって為政者に対する無謬性への期待が高じると、為政者は失敗による信頼の喪失を恐れて非挑戦的で保守的な意志決定を行うようになります。また失敗は隠蔽し、失敗を無視し、失敗しないことを前提に計画を立てるようになります。

 これは失敗を前提とした人間工学・安全工学からすれば極めて不適切な行動です。過剰な保守的態度、失敗の隠蔽や無視、失敗を考慮しない計画はいずれ必ず致命的な失敗をもたらします

 

 もちろんこのような為政者は信頼に値しませんし、人々が不信を持つのも当然です。ただ、そのような行動に為政者を駆り立てている根底には人々からの無謬性の期待があることを私たちは多少なりとも意識する必要があるかと考えています。

 どれだけ優れた賢い独裁者でも晩節を汚すことがあるように、人は必ず間違えますし、必ず失敗します。他人から期待をされれば誰だってその期待を裏切りたくないと考えるものです。それは時に強迫観念として人の行動を決定付けます。

 だからこそ過剰な期待を人々が戒めて、多少の失敗であれば許容する社会としたほうが不信感の払底には役立つと考えます。

 

 つまるところ、私が不信を感じないのは個人的な思想が理由だと言えます。私は儒教よりも啓蒙思想のほうが好みであるため、為政者に徳があることを期待して信頼していません。そのため信頼を裏切られることもなく不信を感じることもない、そのような理屈です。

 

結言

 個人的な思想はともかく、徳治主義やノブレス・オブリージュが諸悪の根源かと言えばそうとも言えません。地位や立場を持っている人は大勢の人の目に晒される以上、社会の規範として相応の立ち振る舞いを人々が求めることは自然の成り行きです。これを抑えようとしても無意味ですし、人が他者に何かを期待すること自体は必ずしも悪いことではありません。

 よって、それが過剰にさえならなければ問題ないでしょう。

 

■為政者は清廉潔白であって欲しいと願うこと

■為政者は清廉潔白でなければならないと期待すること

 これらの間には大きな違いがあり、後者は為政者を無謬性に駆り立てて人々の不信を生みかねないため過剰だと私は考えます。