忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

規範意識の変化とコミュニティとの関係性

 ちょっとした思考実験として、道徳や倫理のアップデートに関する思索をしてみます。

 

 「ポリティカル・コレクトネス」「文化盗用」「Woke」「ルッキズム」など様々な新しいアップデートされた規範が日本に限らず世界中のSNSで謳われています。「人々はこれら最新の倫理や道徳に従い規範意識をアップデートすべきだ」とする意見は一定以上の勢力を持っていると言えるでしょう。

 令和の日本で「江戸時代はこうだったから」とした理屈が成り立つことは無いのと同様に、倫理や道徳は時代性を持つものであり、規範の更新は必然的で不可欠なものだと私は考えています。

 ただ、それは必ずしも時代性にのみ依存するものではなく、地域性が残っていることについて私たちはもう少し考慮したほうがいいかもしれません。

 

コミュニケーションのグローバル化と現実との乖離

 現代のコミュニケーションは極めてグローバル化しています。ネットワークによって即座に通信が可能になった今では地球の裏側とだってリアルタイムで交信することができますので、もはや地域性など皆無です。

 それに対して各地域の道徳や倫理といった規範は未だグローバル化を果たしていません。それぞれの国で異なる規範を用いているばかりか、ひとつの国の中でも様々な社会的分断が存在しており、未だ規範の統一は為されていないのが現実です。

 異なる宗教・異なる文化・異なる土地、様々な異なる点を無視して統一できるほど絶対的な規範を人類はまだ確立できておらず、それぞれのコミュニティが地域性のある規範を有しています。

 

 つまり、コミュニケーションのグローバル化により私たちは垣根を越えて最新の規範を議論することが可能ですが、現実のコミュニティが持つ規範の地域性とは大きな乖離が生じています。

 その乖離を考慮せず、最新の規範が必ずしも全てのコミュニティに即時適用できるわけではない点に無自覚であると、あまり望ましい結果には至れないのではないかと考えます。

 変な例ですが、Windows11の修正プログラムがWindows8やMacOSに適用できるわけではない、それを無理やり適用しようとしても上手くいかない、そんなイメージです。

 

規範の統一は現実的か、そして最適解か

 確かに最新の規範は優れているかもしれません。しかし必ずしも最良かどうかは議論の余地がありますし、前述したように異なるコミュニティがそれぞれ異なる規範を持つことを考慮せずに画一的に適用しようとするのは危険です。

 「我々の考える最新の倫理観が最も優れているのだから同様にアップデートしろ」とする意識の内面には過度な権威勾配や権威主義的態度が忍び寄ります。それが高じると「アップデートされた我々は善であり正義である、アップデートしない人々は悪である」まで到達しかねません。規範意識の醸成には宗教的価値観が含まれている以上、そのような安易な善悪の定義は宗教戦争を招くこととなります。

 また、地域性を考慮しないことは多様性を無視する言説になりかねず、全体主義的様相を呈することになり得るものです。「我々の信奉する規範こそが唯一絶対である」となっては、やはり異なる宗派との宗教戦争に至るでしょう。

 さらに言えば、規範のアップデートが生じた際、それに適応できる速度には個人差がある以上、必ずグラデーションが生じます。遅い人を悪と断罪しては、アップデートの度に無意味な争いが生じてしまいます。

 

結言

 規範意識の変化は不可欠であり、それはより良い社会のために必要なことです。

 ただ、個々のコミュニティの規範には地域性がある以上、新たな規範が生じた際にはそれぞれのコミュニティに適合した個別のパッチファイルを作成する必要があります。

 そういった労力を払わずに新たな規範を一律的な押し付けをしようとしても、なかなか上手くいかずに余計な軋轢が生じるのではないかと懸念します。