忘れん坊の外部記憶域

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差別やハラスメントの法制化と客観化の受容

 昨今、差別やハラスメントの法制化が徐々に進んでいます。代表的なハラスメントであるパワハラやセクハラ、マタハラはすでに法制化されていますし、今は性的マイノリティへの差別禁止に関する法律案がよく議論されています。

 

 差別やハラスメントは社会にとって望ましいものではありません。よってそれらを排除をすべく法制化が進むことは良いことです。

 ただ、法制化が進むということは客観化を受け入れる必要があることを社会や人々は熟知しなければならないとも考えます。

 

法の前は「主観」が支配するが、法の後は「客観」が支配する

 何を差別と思い、何をハラスメントと思うかは人それぞれ閾値が異なります。差別に鈍感な人も居れば敏感な人も居ますし、ハラスメントを気にしない人も居れば気にしいな人も居ます。

 差別やハラスメントに関する法を整備するにはまず人それぞれで異なる「何が差別で何がハラスメントか」の輪郭を可視化する必要があり、そのための前段階、問題の可視化と周知の段階においては主観的な基準が用いられます。

 つまり、法制化前は「相手が不快に思えばそれは差別だ」「私が不快に思ったのだからこれはハラスメントだ」とした言説がまだ通ります。

 

 しかし、法制化が行われて罰則等が明確になった後は、この主観的基準を用い続けることはできません。法は平等でなくてはならず、個人の恣意的な主観による快不快の基準ではなく、法秩序の維持を担う機関や人々が判定できる形でなければならないためです。主観的な部分が完全に無くなるわけではありませんが、基本的には他者が見てどう判断するかの客観的基準が支配的になります。

 客観的な基準が無ければ法は適切に機能しません。「差別を受けた」と主張する人の言い分が無条件に通るようになれば気に入らない人を社会的に抹殺するような法の悪用が可能になってしまいますし、裁判官の気分次第で刑罰の基準が変わっては法治国家とは呼べなくなってしまいます。

 

 例えばパワーハラスメントはすでに法制化されており、「社会一般の労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じたと感じるような言動であるかどうか」がパワーハラスメントの基準です。この客観的基準は「平均的な労働者の感じ方」とした表現で定められています。

 この「平均的な労働者の感じ方」は可変的で定性的なものであり厳密な客観性を持っているわけではありませんが、少なくとも「私がパワハラだと感じたのだからこれはパワハラだ」といった主観的な言説は通らなくなっています。

 

「主観」を捨てることの難しさ

 誰だって不快な思いを好んでしたいわけはなく、不快なものや言動を自らから遠ざけたいと願うものです。しかし人によって不快の閾値は異なることから、万人に適用できる基準値を決めることはできません。

 法制化はその基準を明確にするものであり、つまり法制化には「世間一般では許容されないと決めた不快」を社会から排除する効果がある反面、「私にとっては不快だが、これは世間一般では許容すべきレベルの不快だ」とした客観的な認識と不快への忍耐が強制されることでもあります。

 「法制化されることによって差別やハラスメントが無くなる」と期待するだけではなく、否応なしに「法制化されることによって差別やハラスメントと客観的に認定されない事象には我慢する必要がある」とも考えなければなりません。

 

結言

 もちろん快不快の基準が法律によって固定化されるわけではなく、あくまで社会秩序を保つために定めるのが法律です。

 よって他者から受けた不快に対して「私は不快に感じた」と表明し是正を求める権利が消失するわけではありません。法律で罰せられないことは何をしてもいい、というわけではないのですから。

 ただ、法による基準と、道徳やモラルといった社会規範による基準には差異があり、法の基準には客観化が不可欠であることには留意が必要です。