少しばかり、ではなく相当に辛辣な話。
他人は鏡
ことわざにもある「他人は自分を映す鏡」は、他人に対して感じる好悪や評価は自分自身の内面を映し出している鏡のようなものであるとする考え方です。
この言葉は自己啓発の文脈で用いられることが多いと思われます。ただ必ずしも「人の振り見て我が振り直せ」といったように内省を求めるものではなく、どちらかと言えば心理学的な投影の結果としてそうであるとした概念に過ぎません。
よってその是非や善悪を問う意味は特に無いのですが、このことわざを展開すると次のようなことが言えます。
「他者を過小評価する人は自らが過小であることを露呈する」
もっと率直に言えば、他者を愚かだと罵る者は自らが愚昧であることを曝け出している、そう言ってもいいでしょう。実に辛辣な物言いではありますが。
主観・間主観・客観
他者が愚かかどうかの客観的な判定は存外難しいと言えます。
その判断基準を”己が理知的であると信ずる言動”に依拠するのであれば、それは主観的な判定です。他者には他者の主観と基準があることを理解できずに自らの無明を晒しているに過ぎず、まさしく他者を愚かと侮る愚か者となります。
その判断基準を”社会的な決め事”に依拠するのであれば、それは間主観的な判定です。かつて人々から愚か者と嘲笑われた賢者が歴史上に多数いるように、主観の集合はそれが正しいことの論拠足り得ません。皆で決めたことは皆で決めたことだからそうするだけです。社会的な決め事とは物事の是非を決めているのであってその正誤を決めているわけではありません。だからこそ集団や状況や時代によって人々が取る行動は変化します。極論、殺人ですらその正誤は分からず社会に必要だから是非を定めているだけです。だからこそ通常は非ですが戦時には是とされます。
客観とは、ありとあらゆる人間の主観を排除した上でも成り立つ認知です。移ろい変わる人々の認知を超えて正誤を定める論理であり、理念であり、過剰に言ってしまえば神の視点です。科学哲学的には若干不正確ですが、例えば重力などの自然現象は観測者たる人が居なくても存在するものであり、質量ある物質同士が引かれ合うことは客観的に正だと言えます。
よってそもそもの前提として、他者を愚かと評するに足る客観的な論拠を私たちは持ちえないことへの謙虚な姿勢が必要です。他者が愚かに見える時は常に主観か間主観、すなわち私たちの認知機能に基準を依存しているものであり、主観を通して他者を認知した結果が愚かなのであれば、それはそのフィルターたる主観を司る当人が愚かであることの鏡映しだと言えます。
結言
まあややこしい話をせずとも実のところ簡単な話です。
私たちは自身の五感と脳を通してしか物事を認識できないのですから、他者の評価は全て自らのフィルターを通した結果としての主観か間主観になるのは必然だと言えます。
他者の悪意に晒されず育ってきた人は他者の言動に悪意を見出すことはなく、恵まれた育ちをしてきた人は他者も同様に恵まれた思考をすると考えます。高い知性を持つ人は他者の知性を過大評価しますし、その逆も同様ということです。他者に愚かな性質を見出す人は自らが愚かであることを露呈しているのであり、そうすることで得られる利得は恐らく微小ですので控えたほうが宜しいかと思います。
もっと言えば、誰しも愚かな側面は持っています。それを論うことは間主観的に見て非であり、他者を批難し嘲る行為は自らの愚かな側面を世間に見せ付けている点で露出狂と同じです。
そんな、なんとも実に辛辣な物言い。