忘れん坊の外部記憶域

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社会運動は危機感によって駆動される:危機感の取り扱い方法

 何に対して恐怖を抱き、危機感を感じるかは人それぞれです。

 恐怖は遺伝的要素、すなわちセロトニントランスポーター遺伝子の型の影響が強く、たとえ同じ情報を得ていたとしてもその情報に対する恐怖の感度は人それぞれ異なります。

 この感度差は優劣や善悪で判別するものではありません。遺伝の差、つまりはただの個性の差です。

 

決め付けは認知バイアスに他ならない

 恐怖心や危機感に関していくつか例示してみましょう。

 例えば気候変動問題、人類が絶滅するのではないかと著しい恐怖を感じる人もいれば、そこまでの恐怖を感じていない人もいます。

 例えば戦争、台湾有事など日本が戦争当事国となる事象が生じることを恐れる人もいれば、そこまで懸念していない人もいます。

 

 これらを相手の無知によるものだと決めつけることは危険です

 何故ならばどちらもそれぞれの専門家、すなわち膨大な知見を有している人の中でも意見に分布がある事象だからです。気候学の専門家全員が気候変動に対して同じだけの恐怖を感じているわけではなく、東アジアを専門とする国際関係論の専門家全員が戦争勃発に対して同じだけの危機感を覚えているわけではありません。

 

 もちろん恐怖心の差は知識や経験など情報の非対称性からも生じます。

 例えばジェットコースターに乗ることを怖がっていた子どもが一度経験してみたら恐怖心を克服して恐れなくなるなど、知識や経験の差は実感的に分かりやすいパターンではあります。

 ただ、それが全てではないので決め付けてはいけない、そういう話です。

 実感的に分かりやすいということは認知バイアスに陥っている危険があることと同義です。初めてのジェットコースターを恐れる子どももいれば、恐れない子どももいます。それは知識や経験よりも遺伝的要素の差が大きい、それだけの話です。

 

 もっと極端な例示をするならば、死を恐れる人と恐れない人の違いは経験の差、ではないでしょう? なにせ誰も死んだことはないのですから。

 

社会運動に携わる上での心得

 『何に恐怖を感じるかの感度差は遺伝的要素が強いこと』に対する認識は社会問題を取り扱う人にとって熟知しておくべき情報です。

 何故ならば、社会運動は常に恐怖心から生じる危機感によって駆動するためです。

 社会運動とは「現状に問題がありこれを変えなければならないと活動する行い」であり、その構造からしてこのままではいけないとする恐怖心なんとかしなければならないとする危機感を原動力としています。

 そのような運動において『何に恐怖を感じるかの感度差は遺伝的要素が強いこと』を適切に認識していない場合、危機感を感じていない他者を愚かで無知なためだとする誤解が生じる危険があります。

 もちろん危機感の無さは無知から生じる場合がゼロではありませんが、それが必ずしも真とは限りません。遺伝的な違いで運動家と同様の危機感を感じていないだけの可能性は充分にあります。

 そのような状況で相手を愚かで無知だと責めるような言説を弄してしまった場合、反発を受けるのは必然です。愚かで無知だと嘲られて唯々諾々と従う人はそう多くはありません。よってこの誤解は社会運動への抵抗勢力をただ増やして運動の進展を阻害する愚行を引き起こすことになります。

 また、危機感を煽ることによって社会運動を前進させようとする人々を時々見かけますが、あれは悪手だと言えます。

 確かに同じ危機感を共有する味方を増やすための誘因要素にはなり得ますが、同じ情報を持っていて、しかし危機感を覚えていない人々を仲間にできないためです。危機の過剰演出は危機感を覚えていない人からの反発を招きます。

 

 危機感を覚えている社会問題を本当に解決したいのであれば、同じ危機感を共有することは重要ではありません。それよりも問題を解決するためのリソースを確保することが重要です。

 そのためには、抵抗勢力を増やすような行動をするのではなく、危機感を覚えていない人からの協力が得られるように説得をすることです。

 少なくとも他者を嘲り、危機感を煽ることは人々の共有財産である社会的リソースの供与を得るための有効な手段足り得ません。

 

 同じ情報を持てば誰もが同じように恐怖を感じるはず。

 同じように恐怖を感じれば誰もが同じように行動するはず。

 これは完全に誤解です。

 

結言

 恐怖に遺伝差があることは、世界中でありとあらゆる事象に対して誰かしらが何かしらの恐怖を抱いていることを意味します。

 すなわち、世界は恐怖で溢れています。

 しかしながら社会的リソースは有限であり、誰かの恐怖心に対して無制限にリソースを出せるわけではありません。

 よって自らが問題視して恐怖を感じている社会問題に対して社会的リソースを注ぎたいのであれば、必要なのは他者を愚かで無知だと断罪することではなく、恐怖を煽ることでもなく、他者に納得してもらえるよう説得することです。感情を言語化し、論理を構築し、その問題の解決がなぜ優先されるべきかを万人に伝わる表現で伝えることが唯一の得策だと言えます。

 

 

余談

 厳しい話となりますが、気候変動問題が昨今の好例と言えます。

 気候変動対策は徐々に進んでおり、化石燃料の使用はいずれピークを迎えて代替エネルギーを主軸とする目途が立ちつつあります。

 これは社会運動家が危機を煽った成果ではありません。それは反発を生んで懐疑論や陰謀論を延伸させた負の結果をもたらしただけです。

 実際の成果はエネルギーの移行を進めるために政治的な調整を図った実務者や、技術開発を進めた科学者たちが成し得たものです。実際に頭を使い手を動かしたこれらの人々こそが真に賞賛されるべきでしょう。

 

 社会運動家が不要だと言うわけではありません。過激派は問題周知の段階において必要であり、社会問題の解決に進むためのトリガーとして不可欠です。

 ただし、それは穏健派の実務者たちの成果に勝るものではない、それだけの話です。