忘れん坊の外部記憶域

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終末論的な言論が漸進的な解決を阻害する

 先日は科学的な視点から見た気候変動問題に対する見解を述べましたが、今回は社会的な視点から見た気候変動問題に対する見解を述べていきます。

 

 テーマは「終末論的言論による問題」です。

 

楽観と悲観の差

 気候変動問題においてはティッピングポイントを代表に、科学的な知見から離れた終末論的な言論が存在します。

 少なくともIPCCや科学者の主流な見解はそういった終末論ではなく、「人為的な影響によって気候変動が起きているからこれこれこういった対策が必要だ」までであり、その対策に失敗したら人類が絶滅したり文明が崩壊する、なんてことは述べていません。

 

 もちろん気候変動に直面する人類の今後を想って悲観的な気持ちになる人はいるでしょう。気候変動に限らず、未来には必ず不確定要素が存在します。その不確定要素をポジティブに捉えるかネガティブに想うかは遺伝の差ですのでコントロールが容易なものではありません。

 

 ネガティブに想うこと自体は自由ですので、その善悪や是非を問いたいわけではありません。

 ただ、ネガティブな方向、終末論的な言論に依拠した意思決定は、ポジティブで現実的な問題解決を阻害しかねないことを警告したいと思っています。

 

終末論的な言論による問題

 現在の科学は気候変動によって地球規模の破滅が訪れることを特定していません。転換点(ティッピングポイント)の存在は示唆されているものの、それは人為的な社会的要素と比べれば小さな影響しかもたらさないと判断されています。気候変動によって不安定で自己強化的で急速な破滅が生じると論ずるのはそういった科学的知見を無視した言説だと言えます。

 それは例えば「2030年までにCO2を60%削減しなけれ人類は破滅する」といった類のものです。

 科学ではなく神話的な気候変動の危機に幻惑されている可能性はありますが、より好意的な解釈をするならば「ドラスティックな改革が行われなければ破局的な事態に陥るのだ」と差し迫った危機を訴えることで、人々の行動を促し啓蒙しているのだと思います。

 

 しかしながら、確かにそういった目下の状況への危機感は人々の行動を促すかもしれませんが、それは人々が適切な行動を選択できるかどうかの保証とはなりません

 例えば「残り7年以内になんとかしなければ人類は滅亡する」と主張することは、実装までに何年も掛かる画期的な新技術、議論を重ねて社会的合意を経てから行われる優れた政策、未だ不透明とはいえ将来的に実現できるかもしれないイノベーション、そういったものへの継続的な投資や実現努力を損ねる可能性が高まります

 あるいは実現不可能なレベルの短期的な目標を設定した場合、その達成に奮起する人がいる反面、虚無主義や敗北主義に陥り行動を取れなくなる人がいることを見落としています。特に若い世代が未来に対する諦念を抱き絶望と共に日々を過ごすような言論はまったくもって望ましくないものです

 このような言論は、破滅的ではないものの長期的な目線を持って向き合っていかなければならない現実の気候変動に対する行動への明確な阻害要因です。

 

 持続可能な社会とは、完成された変化のない社会ではありません

 そのように固定化した社会は予期せぬ外乱によって必ず崩壊します。

 ダーウィンの名言を引用するまでもなく、問題に対して継続的で長期的な解決努力が払われて常に変化し続ける社会こそが持続可能な社会と呼ぶに値するものです。

 

 私たちの社会が気候変動について解決努力を続ける必要があることは疑いようがありません。不確実な未来の不確実なリスクを極小化するために尽力することは必須です。

 ただ、それは終末論的な言論によって繁栄か滅亡かの二者択一を迫ることとは別の話です

 私たちはより良く適切に変化し続けなければならず、近視眼的でドラスティックな変革が最適とは限りません。

 終末論的な言論はただ選択肢を狭めているだけです。

 

近視眼的対策に対する懸念

 近視眼的対策は上述以外にも多数の弊害を生むと考えます。

 例えば木は成長時に大気中の二酸化炭素を使うため、植林は短期的にはCO2を固定します。しかしいずれ成長を終えた木は枯れて微生物に分解されるか人が木材として使った後に焼却するかの経路を経て、再度大気へCO2を放出します。よって長期的な目線で見ればCO2の固定とはなりません。CO2を出した分だけ植林すればいいという発想は長期的には好ましくない結果をもたらすかと思います。

 またCO2排出量で短期的効果を測定することも弊害があります。例えば先進国のいくつかではCO2排出量を削減するために排出余地の多い途上国へ生産拠点を移行する動きが起こっています。自国内で生産しなければCO2排出量には換算されないからです。当然これは全体で見ればCO2の収支に変化はなく、対策としてはまやかしに過ぎないでしょう。

 これらのように、近視眼的で目に見える対策を取ろうとすることは必ずしも実際的な効果を保証するものではないことには注意が必要だと考えます。

 

 さらに言えば、終末論的な言論は環境テロリストを生む温床ですらあると思っています。

 環境テロリストの論理では、人々の行動を変容し社会を構造的に改革するためには暴力的な手段も許容されるとしています。遅ければ間に合わない、人を殴りつけてでも今すぐに変えなければならない、とする理屈です。

 しかしながらその論理の公理、「終末が近い、喫緊の事態である」は本当に適切であるか、それは科学的な根拠に基づいているのか。まずはその点を熟考すべきではないでしょうか。

 

 

余談

 一言で言えば、「やってる感」が好みではないのです。

 ドラスティックで短期的に効果があるように見える目立つことではなく、ちゃんと効果があることをしっかりと考えてやっていきたいものです。