なんとも言及し難い『気候変動』に関して、COPの時期ですので及び腰ながら語っていきましょう。
私は科学を否定しているのではなく構造を否定したいのであり、むしろ科学を擁護したいのです。
非対称性のある言論空間
気候変動に関する言論は、率直に言って非対称性があります。
懐疑や否定は「否定論」として排除される一方で、誇張や過激な警鐘はそれが誤りであっても「正義の側」として免責されます。
もちろん「地球の気温は上がっていない」類の気候変動否定論は明確に非科学的な言説であり、有益なものではないでしょう。
しかし私としては誇張や過激な警鐘も非科学的な否定論と同程度に無益だと考える次第です。
科学的妥当性による評価ではなく、道徳的かどうかで非対称的に言説の排除が選択されるのは、まったくもって科学的ではないと言わざるを得ません。
COP30では「気候変動に関する偽情報への対処」が宣言されました。
偽情報の定義としては「否定論」や「グリーンウォッシュ」が明示的に対象とされましたが、「誇張や過激な警鐘」は対象外です。
例えば、「気候変動は起きていない」とした主張は偽情報として排除されます。現在の科学的知見からすれば妥当です。
しかし「気候変動で人類は滅亡する」「壊滅的な結果は避けられない」といった表現は、IPCC報告書に記載されていないにも関わらず、ファクトチェックの対象とはならないでしょう。
党派的に言論を線引きする、それは科学のやることではありません。
科学哲学に基づく考え方として、科学は懐疑や異論を許容する仕組みです。科学とは絶対的真理ではなく現在確かだろうと分かっている知識の束であり、反証的な試みが許容されない知識は宗教的権威を纏った教典や政治的忠誠を試す踏み絵に堕します。
今回は誇張や過激な警鐘のうち、「未来世代」「不可逆的」「破滅的」に焦点を当てましょう。
個人的に、これらの語彙が気候科学の制度的な正当性を貶めていると考えています。
免罪符の宗教性
気候変動における最も道徳的な語彙は「未来世代」です。未来の人々の利益を代弁する声は極めて強力であり、現代人の生活を犠牲にすることが容易に正当化されます。
しかし実際の未来世代は単一の利害集団ではない以上ただひとまとめにできるものではありませんし、未来の期限をちゃんと区切らないと"無限の正義"を獲得できてしまうマジックワードです。現代の世代が100億人もいないのに対して、未来はその気になればいくらでも長い期間を代弁することができるのですから。
未来世代の安易な代弁は、極論ですが、「未来の何百兆もの人々の苦しみを避けるため、二酸化炭素排出量の多い国を上から順に消滅させる戦争を起こすべきだ」とした非道徳的な主張すら構造としては成立してしまいます。
これは極端だとしても、未来のために現代の世代が痛みを伴うべきだとする発言はそういった意味で天秤として不公正です。功利主義の暴走に他ならず、社会的・制度的正義の否定と言えます。
「不可逆的」と「破滅的」も誇張や過激な警鐘に属する語彙です。
例えば「グリーンランドや南極の氷床は一定以上の温暖化で不可逆的な融解が始まり破滅的な結果をもたらす」などはよく語られます。
それ自体は当然憂慮すべき事態ですし真剣に対処しなければなりませんが、この言説には時間軸の概念が抜けています。氷床は数百年から数千年の期間をかけて融解するため、直ちに「破滅的」な事態が訪れるわけではありません。
また、過去には現在よりも気温や二酸化炭素濃度が高かった時代もあり、それでも今は氷床が存在しているように、この場合の「不可逆的」とは将来的な人類の対策をまったく考慮しない未来の時間軸においてのみです。そもそも人間の時間スケールにおいて不可逆的なものなど無数にあります。対策は長い期間や努力が必要になるでしょうが充分に可能です。
なんとかできる可能性と時間のある問題に対して「不可逆的」「破滅的」と煽るのは誤解と思考停止を招く類の誇張や過激な警鐘と言う他ありません。
超過後も私たちは生きていく
当然ながら、リスクの認知や警鐘は必須です。
しかしそれには科学的に正当な手段と表現を用いることが求められます。非科学的な否定も、過度な脅しも、どちらも科学的に不適切な言説です。
パリ協定の1.5℃目標だって、それを超えたら人類が絶滅するような閾値だとはIPCCも言っていません。
リスクは非線形であっても連続的であり、段階的に悪化します。そして適応策や技術革新、制度変化や学習も、私たちは連続的に可能です。思考停止や諦めを引き起こしかねない過剰な表現を用いるよりも、そういった進歩を推奨するような言説こそが必要になりますし、それこそが成熟して落ち着いた公共性のある倫理的な言葉だと言えるでしょう。
結言
正義を免罪符に恐怖を煽って糾弾するのでは、それこそ地獄や終末を煽る宗教となってしまいます。
非科学的であれば、懐疑も、誇張も、対照的に検証されるべきであり、そういった構造を守ることこそが科学と人類にとって良いことではないでしょうか。
余談
COPの枠組み自体がなんとも政治的で好みではありません。もっと合理的に物事を進めたいです。
二酸化炭素削減だって、国家の区分で目標設定をするのは非合理的です。すでにゴリゴリ省エネをやっていて絞るのが難しい日本や欧州の国で高いお金を掛けるのは効率が悪いでしょう。同じお金を二酸化炭素削減に効率的な開発途上国でやればいいと思っています。
例えば、世界平均ではCO2を1トン削減するのに6ドル掛かりますが、日本やスイスは約380ドル、EU28でも210ドルです。日本でお金を掛けるよりもアフリカにお金を使ったほうが60倍以上効率的に二酸化炭素を削減できます。
もちろん政治的・制度的困難があって無理なことは重々承知していますが、本当に科学に基づくのであれば科学的合理性が優先されるべきだと思う次第です。