どのような社会でも、少なくとも民主的かつ自由主義の集団であれば全員が一丸となって同一の意見を持つことはまず考えられず、必ず集団内での意見対立は生じます。紋切型の雑な切り口を援用すれば、例えばアメリカでは伝統的価値観を重視するコンサバと先進的なリベラルの分断、フランスでは本質的には経済格差ではあるものの移民とナショナリストの分断などです。
同様に、日本で言えば「日本は凄い!全然問題ない!」とする楽観と「日本は駄目だ!もう未来は無い!」とする悲観で社会的な分断が生じているとする意見を見かけます。
もちろん社会をデジタル的に二分する論は簡略になり過ぎていて実態を適切に表しませんが、物事を単純な概念モデル化して思索すること自体は役立つことも事実です。概念モデルをそのまま現実に適用しようとするからズレが生じるのであって、異なるレイヤーで思考実験的に扱う範囲であればモデル化は時に有効な方法です。
今回はそんなデジタル的な思考について述べていきます。
モデルと実態の齟齬
先日若者と話していたところ、「日本はもう駄目なんです、終わりなんです」と悲観的だったことが印象的でした。
楽観と悲観を分かつものはセロトニントランスポーター遺伝子の型、つまり遺伝的な要素が強いことを示す研究結果を個人的には支持しています。つまりは個性の差です。
そして私は楽観的な人間なため、彼の意見には全面的な同意をしていません。とはいえ、その若者の悲観にそこまで同意はしないものの、かといって日本が万事問題無しかと言えばもちろんそうではないと思います。
よくよく日本の細部を見ていけば問題ない部分はたくさんありますし、世界に通用する様々なものも今なお生み出され続けています。そして同時に、世界から遅れを取っていたり明らかな問題になっていることもたくさんあります。問題がないことを示す指標もたくさんあれば、問題があることを示す指標も同様にたくさんあります。
これらはまったくもってデジタル的に二分できるようなものではなく、実態は極めて複雑なモザイク様です。どの部分を切り取って観察するかでまったく異なる意見が出ることでしょう。
とにかく丁寧に
前述したようにモデルはモデルに過ぎず、モデル化された「日本は凄い!」と「日本は駄目だ!」のデジタル的な分断を現実に適用して安易に語ることは実態を適切に表しません。
これは雑に扱うどころか物凄く丁寧に扱わないといけない部分だと私は考えています。このようなモザイク様の状況を十把一絡げに「日本は凄い!」と「日本は駄目だ!」で分割することは基本的に望ましくありません。そこには単純に論理の飛躍がありますし、楽観と悲観は遺伝的な要素、つまり個人のアイデンティティに根差していることが多いためです。悲観的な人に「日本は凄い!」と単純化した意見を押し付けると物凄い反発心を生みますし、その逆も同じ結果となります。
このような議論ではちゃんと個別に切り分けて、それぞれについて丁寧に話し合う必要があります。
丁寧さは何よりも物凄く重要です、場合によっては内容よりも重要になります。
これはそこまで難しい話ではありません。
例えば、真面目な性格で、気遣いが下手な男性がいたとしましょう。
真面目さを重視する人からすれば彼は凄い人です。
反面、気遣いを重視する人からすれば彼は駄目な人です。
真面目さを重視する人が「彼は凄い人だ」と主張すれば当然ながら気遣いを重視する人からの反発を受けますし、反対も同様です。
個々人の感性や趣味嗜好に基づく判断を否定するわけではなく、「彼は凄い人」だと思うことも、「彼は駄目な人」だと思うことも自由です。ただ、その個人の判断を乱暴に全体化して人へ押し付けてしまっては反発と分断が生じてしまいます。
必要なのはとにかく丁寧さです。自身の意見がフォーカスしている範囲を丁寧に切り分けて「私は真面目さを重視しているので彼を凄い人だと思う」「私は気遣いを重視しているので彼を駄目な人だと思う」と意見表明するのであれば、極端な反発を招くことはないでしょう。
そしてこういった個々人のモデル化された認識が実態と乖離していることは当然であることについても理解が必要です。どれだけ「彼は凄い人」あるいは「彼は駄目な人」だと個人が思っていようが、彼の実態は主観的な「凄い」でも「駄目」でもなく、ただ「真面目な性格で、気遣いが下手な男性」です。
結言
インターネットでは簡単に、悪く言えば乱雑に意見表明ができるため、意見表明をする際の「丁寧さ」が侮られがちです。
それは自身の意見に相対する相手への思いやりの面だけでなく、自らの意見を論理によって飾り付けるパッケージングの面でも言えると思います。雑なままの意見を、雑に放り投げることができてしまうことは若干恐ろしい話です。
丁寧さは世間体やマナーといった形式ばった次元の話ではなく、人と人の紐帯を保つ上で極めて重要なファクターです。丁寧さは相手への敬意を表すための所作であり、丁寧さを忘れた安易な言説こそが現実の分断を生む根源になっているとすら言えるかもしれません。
つまるところ、言いたいことは単純です。
何はともあれ丁寧にいきましょう。