日本人は討論(ディベート)が苦手と言われています。
学術的な数値データは存じませんが、確かに日本では欧米と比較して文化的に討論を避ける傾向があると考えられており、教育でも討論をあまり重視していないことは事実かと思います。
コンテクスト(背景・文脈)の違い
これらは歴史と文化の側面からある程度説明がつきます。
地理の制約で移住の機会や人的交流が少なく、異国文化に接する機会もあまり無かった地域では、同質的な価値基準の人々が集団で定住していることから異なる意見を持った他人の存在自体がイレギュラーなものです。対して移住の機会が多く人的交流が盛んな地域では、異なる文化圏の人々と接する機会が多かったことから、価値基準の違う他人が身近に存在しています。
アジアに多い前者の国々はハイコンテクスト、欧米に多い後者の国々ではローコンテクストなコミュニケーションが基本となります。
ハイコンテクストとは、文化の共有性が高く、意見を全て言葉にせず言外の文脈をほのめかして行間を読み合うコミュニケーションです。ローコンテクストは、文化の共有性が低く、ほのめかしや行間ではなく可能な限り意見を言語化するコミュニケーションです。
これらは優劣ではなく歴史や地理などによって練り上げられてきた差異に過ぎませんが、異文化コミュニケーションを知る上では必ず理解が必要な概念だと言えます。
文化人類学者の研究から、日本は世界でも有数のハイコンテクストな文化圏だと言われています。よって日本では互いに意見を述べ合わずとも類推と共感と文脈によって察することがコミュニケーションの基本であり、ディベートのような形で表に出すことは望ましいとはされていなかったと考えることは実際的です。
コミュニケーション方法を相手に合わせる
しかしながら現代社会は日々グローバル化が進んでいます。単純な人的交流の進展のみでなく、人権や概念など議論の俎上にあがる議題自体も文化的背景が共有されていないグローバルから持ち寄られることが多くなっていると言えるでしょう。
そして文化的背景の異なる人々・概念について取り扱う時はローコンテクストに合わせる必要があります。これは考えるまでもなく当然のことで、ハイコンテクストなコミュニケーションは取りようが無いためです。文化の共有性が低い状態でのコミュニケーションである以上、必然的にローコンテクストでのコミュニケーションを求められます。
よってハイコンテクストな文化圏で生きてきた私たち日本人は、不慣れだとしてもローコンテクストなコミュニケーション手法について学ぶ必要があります。コミュニケーションエラーは時に深刻な事態を引き起こすことから、こればかりは不得手だから避けるというわけにもいきません。
互いに意見を持ち寄り、共感や類推ではなく論理によって主張するディベートはローコンテクストなコミュニケーションの代表格です。ディベートが苦手だとしてもそれを克服する必要があります。
ディベートの練習
とはいえ、不慣れなディベートをいきなりやろうとするのは難しいものです。下手にやると口喧嘩や人格否定に発展しかねません。ディベートは訓練によって身につける技術であり、練習を重ねる必要があります。
個人的に練習方法としておススメしたいのは、褒めるディベートです。
一般にディベートと聞いてイメージする戦いのような形式ではなく、例えば互いの好きなところを言語化して褒め合ったり、相手の長所だと思うところを相手に納得してもらえるよう言葉にするなど、攻撃するのではなく褒める形で行われるディベートをするのが良いです。それでも自分の意見を言語化する訓練に十分なりますし、相手の話を聞いて論理的に分析する練習にもなります。
なにより、褒め合うディベートは口喧嘩や人格否定に発展する危険を著しく低下させることが可能です。安全かつ健全にディベートの練習をするのであればこれが最適かと個人的には思っています。
結言
グローバル化の波は特殊な事態でもない限り進展し続けます。特に現代の日本は産業構造からして江戸自体のように鎖国して独立独歩で歩むことなどできず、否応なしにグローバルの荒波を耐えなければなりません。
よってグローバル社会でのお作法であるローコンテクストなコミュニケーションについても徐々に慣れていく必要があると考えます。
その練習として、テレビの討論番組やインターネットでの論争のように闘争的なディベートではなく、まずは穏やかなディベートから始めるのが良いのではないかと私は思います。